二次創作,二次小説,ヒカルの碁,オリジナル小説

Home

想恋歌

終章 行く先を照らす導 第五十話                             2015.5.5

 暗い……昏い……。――冥い……  何故冥い、何が暗い……。  ああ~、俺の心が暗いのか。でも何故……何故冥いのだ。解らない、何も解らない…………  佐為……佐為は何処に?  佐為ならこれが何なのか教えてくれる。  いつもいつも、ずーっとそうやって二人で生きて来たんだから、俺を必ず助けてくれる……のに……  すぅーと視線を巡らせると、遥か彼方にボンヤリと灯りが見える。近づいていくと、徐々に人の姿だと解った。  佐為ったら……あんなとこに居たんだ。  嬉しくなり、そちらに向かって歩を進めたヒカルは、もう一人の自分が其処に居るのを認識する。  ――アレ?! 俺、が居る。でも俺は此処にいる。自分の掌を広げて確認する。  じゃ、アレは誰?  更に近づくと何か二人で言い合ってる。  佐為、と呼んでみたが、俺には気づかない。此処は一体何処なんだ……  叫んでいる、……俺が。佐為に向かって懇願してる。  ――ッ! 別れるなんて言うなよ。ずっと一緒に居るって言ったじゃないか! 嘘だったのかよ……。お願いだから行かないで、俺を置いて行かないで……。お願い……佐為……さい――  ――もう終わったのですよ。あの時の気持ちは嘘じゃありません。貴方には新たな人生が待っているのです。鈴千香と子どもと一緒に、人生を始めるのです――  ――イヤダ! ヤダヤダヤダ!! 佐為がいなかったら生きていけない。佐為でなきゃヤダ。ゴメン。二度とあんな事しないから、お願い考え直して――  ――もう引き返せないところまで来てしまったのです。私の事は忘れて自分の人生を始めなさい。――  ――イヤダ! イヤダ、イヤダ、イヤダぁ……。佐為、……イヤダょォー……。  あれは……俺だ。俺の心だ。俺の中の罪悪感……。  普段は心の奥に潜んで、俺自身にも気づかせないのに、何故だ。何故苦しめるんだ…… 「ヒカル、ヒカル……」  佐為に呼びかけられ、うっすらと瞼を開いたヒカルは、少し状況把握に戸惑っている様子だ。 「ア……。さい……。ゴメン……また起こしちゃったんだ」 「私は大丈夫です。起こすのは忍びなかったのですが、ヒカルがあまりにもうなされているので、心配になって。また、同じ夢を見たのですか?」 「うん……。ごめんな佐為。此処の所もう夢見ないから、大丈夫だと思ったのに。佐為が睡眠不足になっちゃうから、別々に寝た方が……よくないか?」 「私の事なら心配いりません。心配なのはヒカルの方です。ホラ、起きて。眠るまで抱いててあげます。またお話しましょうか」  なんか、子供みてぇだぁ~と言いながらも、素直に佐為の胸に背中を預ける。  夢を見ている途中で声を掛けるのは、あまり良くないと言われている。  それ故、佐為はじっと様子を見ている事が多いのだが、時にはかなり長い事うなされている事がある。  そういう時は思い切って声を掛け、起こす事にしている。  そして、ベッドの上で佐為が後ろから抱きかかえて、時々キスしたりしながら、昔の話などをしてあげる。  女将達が訪問した翌週には、ヒカルと二人で鈴千香の見舞いに行った。  鈴千香は二人の訪問を受け、若様に申し訳ないと、涙ながらに謝罪の言葉を口にした。 「鈴千香の責任ではありませんよ。誰が悪い訳でもありません。こうなったのは運命のイタズラだと思いましょう。私達が考えなければならないのは、これからの事なんです。まずは無事に子供が生まれる事と、自分の身体を大事にしてください。貴女は何も心配しなくていいのです。必要なことはすべてこちらで手配しますから、クヨクヨ考えないようにしなさい」 と、優しく諭していた。  それから佐為は親子DNA鑑定について説明をした。出生前の胎児の親子鑑定は、羊水・絨毛(CVS)の胎児DNAで親子鑑定が可能だが、これは母体となる女性に、精神的苦痛があることを説明した。  ヒカルも佐為も、ほぼヒカルが父親だろうと確信していた。 故にヒカルも、羊水や絨毛(CVS)を採取するのに、香に辛い思いをさせるのは反対だった。 出産してからでもいいんじゃないかと、思っていた。 「貴女を疑っているような結果になりますが、これは後々にも大事な事ですから、どうか其処のところは理解してくださいね」 「はい、解っています。そう思われるのは仕方の無いことです。若様、私は大丈夫です。出生前の鑑定を受けますので、準備をしてください。ヒカルさんにとっても、その方がいいと思うんです。今でもこんなに良くして頂いて、申し訳ないくらいです」  既に佐為の手配により、香はランクが一番いい個室に入っていて、日中は付き添い人もいる。 香には両親も無く、頼れる親類縁者もいない。今までは芸妓仲間達が交替でついていてくれたが、彼女たちも、夜にはお座敷に上がらなければならず、香は負担を掛けていることを、済まなく思っていた。    そして香の希望によりDNA鑑定を行った結果、99%父子関係ありとの結果が出た。この時点で出産まで2週間となっていた。  ヒカルが頻繁にうなされるようになったのは、鈴千香の妊娠を告げられてからだった。それまでも無かった訳では無い。思い返せば数ヶ月前にも、時々うなされていることがあった。  恐らくはヒカルの心に、隠し事をしているという思いが、言わなければいけないのに、言えない。話さなければならないのに、でも話せない。  そんな負の念が心の片隅に、少しずつ沈殿していったものだと考えられる。  そんな時佐為は、決して言わなかった。考えなくてもいい、思わなくてもいい、忘れなさいとは。  ただ一言、――ヒカルの気持ちはちゃんと解っていますから。私は此処に、貴方の側にいますよ――と、繰り返し言って聞かせた。そうしているうちに、少しずつではあるが落ち着きを取り戻していった。    出産をしても、香がすぐに退院出来る目処はたっていない。  香が普通の健康体であればよかったのだが、出産してから子供の世話を、何処で誰がみるのかということが、一番頭を悩ませたことだった。  生まれたての赤子を母親から引き離して、東京に連れてくる訳には行かず。かと言って、佐為かヒカルが京都に滞在して、四六時中面倒みるのも不可能。  それに、赤の他人に任せっきりにして、身内が全く知らん顔では、道義的にもどうかと思われる。ヒカル自身の心情としても、自分の子なんだからという思いがあった。  結局頼れるところはヒカルの親族。とどの詰まり両親しか無かった。  その日、父も定休日で家にいる事を確認したヒカルと佐為は、揃って実家を訪問した。話があるからと告げて有った為、二人共怪訝な面持ちではあったが、嬉しそうに迎えてくれた。 「ヒカル、久しぶりじゃないの。あんたってば電話で連絡してくるだけで、ちっとも家に顔見せやしないんだから。その点佐為さんは、本当に良く出来た方だわ。あんたには勿体無いわね」  チェ! のっけからこれかよ。佐為ったらこういうことは抜け目ないんだから。  憮然とした表情になったが、いかんいかん。今日は低姿勢でお願いしなきゃいけない事に思い至り、「悪かったよ」と頭を下げた。 「今日はお休みのところ、お時間頂いて申し訳ございません」  客間に落ちついて、茶菓も出揃った時に、佐為が頭を下げた。ヒカルは出されたお菓子を唖然と見ていた。これって確か、一個ウン千円とかする菓子じゃなかったか。 「母さん、この菓子わざわざ買って来たのかよ」 「そうよ。先だって佐為さんに頂いて食べたら、ホッペが落ちるほど美味しかったのよ。佐為さんもきっとお好きなんだろうと思って」 「ふーん。俺だって食べたこと無いのに……」 「じゃ、今日食べれるじゃない。よかったわね」  佐為は親子の会話に苦笑が抑えきれなかった。重要な話があって来たのに、ヒカルが気にするのは其処なのか。 「で、話ってのはなんですか?」  こちらも呆れた風情の正夫が声を掛けた。 「ヒカル、ちゃんとお話しなさい」  佐為にそう言われたが、中々言葉が出て来ず暫く、え~っととか、ウ~ンとか唸ったりしていた。 「ウン。あの、その、――ができました……」 「ハッ? なんて?」 「ヒカル、そんな蚊の泣くような声ではご両親に聞こえませんって」 「ゥ、ククッ……。子供が出来ました!」  ポカーンとヒカルの顔を眺めている両親。いち早く気づいたのはやはり正夫だった。 「ヒカル、お前まさか……」 「なに? 犬か猫の子でも産まれたの? あのマンションで犬は飼えなかったかしら。じゃ、猫飼ったの?」  母、美津子はてんで理解していなかった。佐為はおかしさが込み上げてきて、笑い出しそうだった。  ――この親にしてこの子あり―― の見本の様な親子だ。 「子供が出来たって言ったら、母さんは犬か猫の子でも産まれたのって、絶対言うぞ」  此処に来る前に、ヒカルが言っていた言葉だ。 「美津子、犬でも猫の子でも無いようだぞ」  撃沈しているヒカルを見て、順繰りに夫の顔、佐為の顔、またヒカルに視線を戻して、やっと事態が飲み込めた美津子。 「あんたの子供なの?」 「そうだよ。俺の子だよ」  スクッと立ち上がった美津子。開口一番叫んだ。「あんた、浮気したの!?」  もう~女って、なんで同じ事言うんだ。ヒカルは密かに胸中で毒づいた。  実はあかりにも同じ事を言われた。最も和谷から伝達という形だったが。  京都から女将たちが来た日から2~3日後に、あかりに話して聞かせた和谷は、あかりが「ヒカルったら、浮気したの!?」 って言ったと、聞かされたのだ。  和谷はその時「浮気? こういう場合も浮気って言うのか?」 とあかりに言ったら 「浮ついた気持ちで起こすから、浮気なのよ。この場合相手が誰だろうと関係無いわよ。義高も浮気したら承知しないからね」 「しませんしません。絶対しません。俺はあかりちゃん一筋です」 「なら、よろしい」  その時和谷とあかりはこんな話もしていた。 「だけどよ、相手は芸者なんだろ。進藤の子かどうか、分かったもんじゃないよな」 「…………あなた、ここに座りなさい」  あかりが自分を「あなた」と呼ぶときは、和谷にとっていい事は無い。ここ数年で学んだことだ。 「誤解してるようだから言っておくけど、人前でそんな事は言わないほうがいいわよ」 「何故? 進藤が困るからか?」 「違うわよ。江戸時代に入った頃に、幕府公認の遊郭「吉原」に、「芸は売っても媚びは売らぬ」 が性分の「吉原芸者」 が誕生したのよ。だから、身を売る仕事の娼妓達と混同してる人が多いのよね。それから祇園にも、幕府公認の芸妓や舞妓さん達が誕生して、――芸は売っても、媚び(身)は売らぬ――と言うのは、祇園の芸妓さん達も同じよ。お仕事で売春行為はしません」 「へぇ~、知らんかった……。そういう事は普通にあるのかと思ってた。うっかり聞かなくてよかったナ。それにしても、進藤の奴大丈夫かな。本当に自分の子だとして、父親やれんのか?」 「そりゃ、いきなりは無理でしょ。はい、この子が貴方の子供ですよって言われたって、親になれるものじゃ無いわ。子供と一緒で、親だって育っていくものじゃないのかなぁ。どっちにしろ、時間掛けて接していくしかないと思うわ」  そのあかりも、つい先日二人目の子、女児を無事出産した。ヒカルの子と和谷の子は同級生となり、塔矢の2番目の子も女児なので、無事に出産となれば、3人とも同級生となる。 「そのぉ~、浮気っちゃ浮気かもしんないけどさぁ……」 「相手の女性は何処の誰なんだ」 「祇園で芸妓をしている女性で、名前は鈴城香。歳は25歳だったかなぁ」 「かなぁって、付き合ってる女性の歳も知らないのか?」 「付き合ってる訳じゃないんだ」 「ハッ? どう言うことなのか全然解らん。解るように順序立てて説明しろ」  父親の少々厳しい問いかけに、ヒカルは、つっかえつっかえしながらも、これまでの経緯を語った。  足りないところは佐為がちゃんと補足説明を入れた。     長いながーい話が終わり、誰もが無言で押し黙っている。 「美津子、お茶くれないか?」 「ああ……はいはい」  勿論、正夫は自分でお茶を入れることは出来たが、美津子に何かさせたほうがいいと判断したのだ。 「ヒカル、お前は本当に相手の女性に子供が出来たことは、知らなかったのか?」 「うん、知らなかった。それは本当」 「恐らく鈴千香は、自分が病気にならなければ、一生言わないでいるつもりだったらしいです」 「お前の子に間違いないんだな? これは重要なことだぞ」 「うん、間違いないって。鑑定そのものが信用出来ないってことなら別だけど」 「そうか……。日本の技術は優秀だ。鑑定を疑う余地は無いってことだな。子供の認知はするんだよな。じゃ、籍はどうするんだ。一緒に暮らすつもりか?」 「俺が香ちゃんと付き合いをしてたなら、考えないといけないと思うけど、それをするつもりは無いよ。狡いって言われるかもしんないけど、俺は佐為のパートナーだ。そりゃ法的には意味の無い間柄だけど。でも、それ以外で出来ることは、すべてやる」  そのやり取りを、背中で聴いている母がいた。 「で、相談ってのは何だ?」 「子供が産まれた後のことなんだ。香ちゃんの退院が何時になるか判らないから、赤ん坊の面倒をみなきゃいけないんだけど、母親と一緒ならこっちに連れてこれるけど、赤ん坊だけ連れて来られないだろ? だから、父さんと母さんにも協力してもらえないかと、頼みに来たんだよ」 「俺一人で、赤ん坊の面倒みるのは無理だぞ。かえって病気にさせてしまう」 「私が行くわ」  お茶の支度をして戻って来た母が、静かに言った。 「美津子……」 「佐為さん、その香さんが住む家の手配はしてるんでしょ?」 「はい、既に。4LDKのマンションが借りてあります。大方の荷物も運び込まれてます。後は細々した物だけかと。それと、住み込みで家事と育児を手伝ってくれる女性が一人と、通いで雑務全般する執事の男性を一人手配しています。二人共信用のおける人物ですので、安心してください」 「なら良かったわ。佐為さんなら、その辺りはちゃんとされてると思ったわ。私は支度が整い次第、京都に行きます。あなた、一人になったからって、誰かさんみたいに浮気しないでよ。それと男性諸氏の皆さん、手伝いをしなさいとは言わないけど、時間を作り京都に来ることが条件よ」 「母さん……ありがとう。俺、ちゃんと手伝いに行くから。父さん、母さんに迷惑かけることになって、ごめんなさい」 「私も出来る限り致します」  三日後には、ヒカルと両親と佐為が揃って京都に向かった。  ヒカルは対局以外の仕事は、棋院に申し出てすべて断っていた。その分は塔矢達が肩代わりをしてくれる事になった。佐為も、自分で無ければいけない仕事以外、暫く入れないようにしていた。  美津子自身が必要な物は、殆ど宅配で送ってある。    京都に到着した一行は、一旦住居となるマンションに落ち着き、其処で執事の久住洋樹と、家事手伝いの女性、高坂のぞみを紹介された。  後にこの二人は、佐為が渋谷区の松濤に住居を構えた時にも、住み込みで家事全般を取り仕切ることになる。  ひと通り家の中を見て回り、香が入院している病院に向かった。 「香ちゃん、具合はどう? 今日は俺の両親を連れてきたよ。子供が生まれたら、俺の母さんが暫くこっちで面倒見てくれる事になった」  香はヒカルの両親の姿を確認すると、ベッドの上に正座をした。お腹が大きい為、深々と頭を下げる事は出来なかったが、流石に一流の祇園で鍛えあげられた身なので、両親への挨拶はそれは見事なものだった。  美津子はそれだけで、いたく感動してしまった。 「こちらこそ、宜しくお願いします。家のバカな息子のせいで、貴方にこんな辛い思いをさせてしまい、本当にごめんなさい。香さんが退院するまで、私がきちんと面倒みますから、貴方は少しでも自分の身体を労って養生してね」 「ヒカルの父、正夫です。私からもお詫び申し上げます」 「いいえいいえ、決してヒカルさんだけの責任ではございません。色々お世話をお掛けすることになり、かえって申し訳なく思っています」 「もういいんじゃないの? 香ちゃんを休ませないと。これからの事も、話して聞かせないといけないんだしさ」  分が悪くなったヒカルが、割って入る。 「そ、そうね。ごめんなさい、どうぞ横になって頂戴」 「はい、では失礼致します」  それからは、マンションの所在地やら間取り、細々したことなどヒカルが語って聞かせ、最後にiPadを差し出した。 「これは?」 「これと同じものを母さんも持ってるから、毎日写真や動画を撮って香ちゃんに送るんだって」 「生まれたての赤ちゃんを、病院に連れて来るわけにはいかないですしね。でもこれがあれば、毎日成長する姿が見られるでしょ? だからヒカルに買わせたのよ。私はこういうものを使った事がないから、覚えるのに必死よ」 「ありがとうございます。何から何まで、本当にありがとうございます」  頭を下げた香は涙ぐんでいた。その手を美津子が握り、優しく労っていた。  実のところ美津子は、香にかなり同情していた。幼い折に両親を亡くし、頼れる親類も居ない。  祇園の厳しい世界で修行を積んで、一人前の芸妓になったのに、病を得て余命まで宣告されている。  病気になったのはヒカルのせいでは無いが、同じ母親として香の心情は理解出来た。  自分の子供の成長を、ずっと見守る事が出来ぬ身は、どんなに辛いことかと、その境遇を哀れんでいた。  それ故に、今回の事も自ら進んで申し出た。  香を見舞った帰りには、置屋にも挨拶に行った。  ちょうど千代菊も居て女将と一緒に、今回の行き届いた配慮に深く感謝を述べられた。  そして帰りには赤ちゃん用品一式を、美津子が見立てて大量に購入した。費用は当然ヒカルの支払いで、荷物持ちはすべて男性陣。執事の久住を入れて4名でも、両手に手一杯の荷物になった。  マンションを借りる費用や、手伝いをしてくれる二人の給料などは佐為が支払ったが、日々の生活費はヒカルの負担になる。    鈴千香の妊娠が判明してから、怒涛の様に慌ただしい日々が過ぎて行った。  そして、当初の予定より早く、ゴールデンウィークも明けようとする5月5日に、帝王切開により、無事に2800gの女児を出産。香は普通分娩を望んだが、それはどうしても医師の許可は出なかった。  5月5日に生まれて来た事で、ヒカルも佐為も因縁めいたものを感じていた。  生まれたての赤子を恐る恐る抱いたヒカルは、この時ようやく自分の子という実感が、僅かに芽生えつつあった。  顔をしげしげと眺めたヒカルが、最初に発した言葉は「サルみてぇー」 だった。 「何言ってるの、あんたにソックリよ。これなら鑑定しなくても判ったわね」  もうダメ、恐い。と言いながら母に赤ん坊を渡すヒカル。流石に慣れた手つきで抱く母。  正夫も嬉しそうに覗きこみ、「本当にヒカルにソックリだな」 と言うので、 「俺、あんなサルみたいな顔してないよな」 と佐為に確認すると、クスクス笑った佐為は「生まれたての赤ちゃんは、みんなあんな顔してますよ。ホラ、ここの髪の毛少し金髪がかってますね」  あれぇ~本当だぁと、全員が覗きこんだ。少し後ろ側の髪だったため、当初は気が付かなかった。  ヒカルは来週の13日から、第70期本因坊の挑戦手合が始まる。ちょうどその休みの狭間だったので、あと6日ほどは京都に滞在出来る。  ヒカルと佐為は、マンションから歩いて5分程のホテルに宿泊している。マンションには正夫が一緒に泊まっている。  その正夫は、7日に東京に帰り、来週赤ちゃんが退院してくるのに合わせて休みを取り、また京都に来ることになっていた。  ヒカルはちょうど対局が重なるため、退院してくる赤ちゃんが見られないじゃんかぁと、ぼやいていた。  でも次の第2局は25日からなので、23日までの9日程滞在できる。佐為はその間、東京と京都を行ったり来たり。   新しい命が芽生えるってのは、こんなにも心が浮き立つものだとは、想像してなかった。  赤ちゃん中心の生活が始まった進藤家なのだが、ヒカルの目下の悩みは名前だった。  香からヒカルさんが考えてください、と言われていたので、毎日頭を悩ませていた。  佐為からは、一生ものですから、慎重に考えなさいと言われるし。  開いたことなど無い姓名判断のウェブサイトを調べたり、本を片手に唸り続ける日を過ごした。  実はひとつ名付けたい名前があるのだが、姓名判断では宜しくない結果だった為に悩んでいた。  姓名判断だけですべてが決まる訳で無いのは、ヒカルも分かっているのだが、最初から良くない名前と解ってて名付けるのも、躊躇するものがある。  佐為に相談したら「その名前は漢字なの?」 と聞かれた。 「そう、漢字。ひらがなにしたら凄く良かった」 「じゃ、ひらがなでいいんじゃないの。どういう経緯で名づけた名前なのか、身内や本人が知ってればいいことだから、特に漢字に拘ることはないと思いますよ」  そのアドバイスで決定した。  誕生してから5日後「名前決めたよ。この名前どうかな?」  病院から支給された、姓名を書き込む用紙を広げて見せた。 「ゆいか……。進藤ゆいか。いい名前ですねヒカルさん」 「本当はね、漢字にしたかったんだけど、姓名判断したら良くなかったんだ。(結香) この字にしたかった。いつも香ちゃんとずっと結ばれている、繋がっているって意味だよ。だから、そういう意味が込められてるって、香ちゃんも覚えててよ」 「ヒカルさん……」  ヒカルの言葉で涙が溢れてきた。 「ほらぁ、また泣くぅ。しっかりと生きて、ゆいかと幸せになるんだから。奇跡は起きるから、希望を捨てちゃ駄目だよ」 「ええ、ありがとうヒカルさん」    香はその後3ヶ月間の入院を余儀なくされた。  その間に色々話し合いが行われ、東京の進藤家で、ヒカルの両親と共に一緒に暮らすのが、一番最善の方法だと思えた。  なにより美津子が、孫を離したがらなかったのだ。  当初香は、其処までご迷惑をお掛け出来ないと、固辞したのだが、これは美津子に諭されて香もようやく受け入れた。  2ヶ月掛けて自宅のリフォームを全面でおこなった。  ヒカルが正式に佐為と暮らすようになってから、一度2階のヒカルの部屋をリフォームしたことはあったが、今回は殆どすべてのリフォームになった。その間正夫は、実家に間借りとなった。  前回も今回のリフォーム代も、全額ヒカルの支払いだ。  その後3年間、平穏だが幸せな日々が続いていた。  香が余命宣告された2年を過ぎた事で、誰しもひょっとしたら大丈夫じゃないか? そんな思いがあった。  だが、医師の話ではそんな甘くないということだった。  恐らく今は精神的な張りが勝っている為、元気そうに見えるが、そのうち病が勝ってくる日が遠からずやってくると、ヒカルは聞かされていた。  数年、身近で接して来れば、情も湧いてくる。ゆいかの為にも元気でいて欲しいと思う。  助けてあげることの出来ぬ無力さに、何度歯噛みしたことか。  ゆいかは、日に日に可愛くなり、ヒカルも佐為も足繁く進藤家に通っていた。  幼児なので、それらしい発音ではあったが、ヒカルの事は「パパ」、佐為を「おとうさま」と呼んでいた。  ヒカルは勿論可愛がっているが、佐為も負けず劣らず可愛がっている。  ひとつには、ヒカルの子だからと言うのもあるし、ヒカルに似ているというのもあった。  だが、佐為にとってやはり一番はヒカルだった。これは終生変わる事はなかった。  あかりと可奈子は、子供を連れてよく一緒に進藤家に遊びに来た。  3人の娘達はとても仲が良く、成人してからも、その付き合いが途絶える事は無かった。  それから2年後、鈴城香が永眠。亡くなる半年前は、殆ど寝たきり状態になった。  香は短い一生ではあったが、周りの人達に暖かい手を差し伸べられ、幸せだったとヒカルに語った。  ゆいかを頼みますと、ヒカルと娘に手を握りしめられ、みなが見守る中静かに息をひきとった。  その顔はとても幸せそうに、穏やかな表情をしていた。  香が亡くなってから一年後、佐為が渋谷区松濤に家を建設した。  元々所有していた土地が有ったため、ヒカルの両親も一緒に暮らせる、いわばかなりの豪邸だった。  ヒカルは、祖父母も一緒にと誘ったのだが、祖父たちは此処を動きたくないと、留まった。  流石に高齢なため、両親も心配しているので、ヒカルは毎日家政婦さんをつけた。  玄関を入ったすぐのロビーには、香の芸妓姿の大きな写真が飾られている。  これは亡くなる一年前に、ヒカルの両親が自分を嫁として待遇してくれた恩返しとして、得意だった舞を披露した時のもので、プロのカメラマンが撮った何十枚かのうちの一枚なのだ。  場所は佐為のマンションの和室で、当日は京都から女将と、既に引退した千代菊、数人の朋輩と男衆(おとこし)さんが来てくれた。  ざっと30名程の人達が集まり、広いリビングも狭く感じる程だった。  ゆいかは非常に聡く利発な子だった。ヒカルと違い学校の勉強もよく出来た子で、松濤に引っ越してからは、佐為がピアノと囲碁を教えた。  ある時ヒカルが、囲碁を教えてプロ棋士にでもするつもりか? と佐為に聞いたら 「いいえ、違います。あの子がなりたいなら反対はしませんが、囲碁は集中力や広い視野を身につけるのに役立ちますから、お勉強の一環ですよ」  あっそう、勉強ね……。俺には縁の無い言葉だったなぁ。  ゆいかは25歳の時に、佐為の姉・橘奈津美の息子で可奈子の弟、橘光一の息子と結婚し、2男1女をもうけた。その次男が成人して、進藤家の名前を継いだ。    そして月日は流れ、佐為は60歳になった時に、すべての仕事から身を引いた。  ヒカルも佐為に合わせ52歳で引退した。周りからは「どうしてそんなに早く引退するんだ」 と、当然引き止められた。 「残りの人生をヒカルとゆっくり過ごしたい」 そう語った佐為の言葉に、なにやら感じるものがあったのだ。  二人で旅行したり、弟子たちの指導に明け暮れ、子供の囲碁教室を手伝ったりと、充実した余生を送っていたが、佐為は亡くなる1ヶ月程前のある日、フッと意識を失い、そのまま目覚めなくなった。  入院させて色々検査したが、どこも悪いところが見つけられなかった。  まるで、数十年前の事故に遭った時の様だと、ヒカルは思っていた。イヤな予感が胸中を駆け巡る。  ヒカルはほぼ毎日の様に病院に行き、時には泊まりこみ看病した。  なんとか目覚めないかと、毎日佐為の枕元で、色々な話を聴かせていた。    そんな日常が過ぎ行き、亡くなる数時間、佐為が目覚めた。  その時ヒカルは佐為の手を握り、ベッドに頭を付けて眠りこけていた。 「ヒカル……」  密やかに呼ぶと、ヒカルがパッと顔をあげた。 「あぁ、佐為。よかった、気がついて」 「ヒカル、よく聴いて。私はもう神に召される時間になったのです。私は転生した時に、神から40年の寿命と言われたのです。ですから、その時間が来たようです」 「そんな……まだ早いよ。いやだよぉ、佐為……」 「ヒカル、私のヒカル、愛おしいヒカル。貴方に巡りあえて素晴らしい人生でした。いつまでも愛しています。又会いましょう。きっとまた巡り会えますから」  佐為、佐為……。ヒカルは静かに涙を流し続けた。  ヒカルはすぐに、ゆいかに連絡をして呼び寄せた。その時に出来るかぎり、知人に連絡を入れてくれるように頼んだ。  間もなくゆいかが家族と駆けつけ、慌ただしく親類・友人・知人もやって来て、広い病室も一杯になった。  佐為はみんなにありがとうと、お礼を述べ、ヒカルの口づけを受けながら静かに瞼を閉じた。  藤原佐為、享年68歳。ちょうど転生してから40年後。神が最初に与えた寿命を全うした。 「進藤君、あれ」  黄先生の声に指差す方を見たヒカルは、其処に平安装束に身を包んだ佐為が浮いていた。  12歳の時のように、ハッキリとは存在せず、その身体は透けていた。 「あれは佐為? 佐為なんですか進藤君」 「黄先生見えるの?」 「見えます」  その幽霊さんはニッコリ笑い、ヒカルをフワリと抱きしめた。そして頬に手を添えヒカルの唇に口づけた。  ヒカルが手を伸ばすと、その手を握りスゥーっと掻き消えた。 「進藤君、今のはどういう?」 「黄先生、落ち着いたら話します」  四十九日も済ませて、今日、ヒカルと黄は佐為の眠るお墓にいた。 「進藤君、あの時の幽霊というのか亡霊は、佐為で間違いないのですか?」 「そう、合ってるようで、でもちょっと違うというか」 「どういう事ですか」 「あの着ていた服は、黄先生判りますか?」 「あれは、日本の平安時代に着ていたものですよね。主に貴族が着る服でしたか」 「そうです。平安装束です。千年前の平安時代に生きていた、藤原佐為です」 「藤原の佐為?」 「はい。その平安時代の幽霊だった佐為に、12歳の時に取り憑かれて、無理やり囲碁の世界に引っ張り込まれたのが、俺です」  早くも唖然としている黄泰雄(ファン・テウン)の顔を見やって、クスリと笑うヒカル。そして長い長いこれまでの人生を、黄に語って聴かせた。 「そうですか。それで辻褄がやっと合いました。成る程、本因坊秀策……。そうですね、確かに秀策でしたね」  佐為も数奇な運命を生きたものですね。でも幸せだったんでしょう? 進藤君に会えたんですから。 「黄先生。俺さ、もし生まれ変わる事があったら、女性に生まれ変わりたい。で、もう一度佐為と巡り会って、佐為の子供を生んであげたい。俺は子供を持てたけど、佐為は持てなかったから」 「佐為も、きっとそう思ってますよ」    黄の言葉に晴れやかに笑ったヒカルは、佐為が亡くなってから18年後、78歳で永眠。  ゆいかと孫達、多くの弟子と、大好きな親友達に囲まれながら、「佐為が迎えに来たから、もう行くな」 そう言いながら、微笑んでその生涯を閉じた。             貴方と共に……永遠に  ―― ヒカル ――            **************************************************************  西暦4002年近未来の地球。  イングランドにある地球連合軍・エリオール軍の総司令官、ブライス・エリオール(Bryce Erioru) に男児が誕生する。  金髪・碧眼の男児は、ブライス・ジュニア・サイ・エリオール(Bryce Junior Sai Erioru) と名付けられる。  それから、8年後。  同盟国のジャパニア連合軍、参謀、橘一樹(いつき) に子供が誕生する。  漆黒の髪と、青朽葉色の瞳を持つ、愛らしい顔立ちをしたその子は、橘ヒカルと名付けられた。             ―――――― ふたたびを 貴方と ――――――                                        本編 完

arrow 番外編その1 arrow 第四十九話



            asebi

↑ PAGE TOP