想恋歌
終章 行く先を照らす導 第四十八話 2015.3.17
本因坊戦が終わった明くる日、ヒカルは新潟から佐為が待っているマンションに、息急き切って戻った。 佐為も今日は早く戻るつもりだと言ってた。マンションの扉を開けると、すぐに佐為が姿を見せた。 「佐~為!」 満面の笑みの佐為が両手を広げた。ヒカルは靴を脱ぐのももどかしく、佐為に飛びついた。 「ただいま~」 「おめでとうヒカル。よく頑張りましたね」 「うん、ありがとう。これで因島へ行って報告出来るな」 「そうですね。ところで桑原先生の最後の手は、どうしてあそこに打ったのです?」と訊かれたので、ヒカルは事の顛末を話せざるをえなかった。 「ああ、あれ? 佐為、リビングに行こうよ。俺暑くってなんか飲みたい」 対局場に居た人や、別室でモニター観戦していた人達には、説明の必要ないのだが、ネット観戦や棋譜を見ただけの人達には状況が解らない。 ヒカルは佐為と一緒にアイスコーヒーを飲みながら、前の日の封じ手の件から、一部始終を時系列に添って説明をした。聞いた佐為は文字通りの大爆笑だった。 「アッハハハー!」 「そんなに可笑しいのか?」 「だって桑原先生ったら、ヒカルを揺さぶるつもりでいらしたでしょうに。アハハッ!」 「チェッ! 俺は別に、桑原先生を引っ掛けるつもりなんて無かったぞ」 「解ってますよ。貴方はそんなことの出来る人間じゃありませんから。桑原先生もそれは解ってると思いますよ」 「そうかな?」 「そうです。だから笑ったんだと思います。それにヒカルの打った手はかなりいい手ですから、その事が無くても、おそらくヒカルが勝ったと思います」 「そっか。うん」 広島県尾道市因島。 本因坊戦を終えてから2ヶ月半余り、10月の半ばに差し掛かるこの日、ヒカルと佐為は因島の虎次郎・本因坊秀策の墓参りにやって来た。 「本因坊秀策記念館」は、この年の5月に閉館になっていた。事前に予約しようと思いネット検索をしていて見つけた。新しく「本因坊秀策囲碁記念館」となっていた。 佐為に訊いてみたら、知らなかったそうだ。 どっちみち、秀策の育った実家は老朽化が酷く、何十年も前に取り壊されていて、今は復元された家が建っている。 「この世は諸行無常です。仕方ありません。でも其処には虎次郎の思いが存在し続けます。それは誰にも取り除く事は出来ませんから、私はそれでいいです」 「ふーん」 やっぱ虎次郎の事は懐かしいんだな。当たり前ちゃ当たり前だけど。でも今は俺がいるんだからな。虎次郎には絶対渡さない! グッと拳を握りしめ胸の前に掲げて見せる。って、もう居ない相手にヤキモチ妬いてどうすんだ。 この後ヒカルは「諸行無常」の意味が解らなくて、こっそり調べたことは佐為にはナイショだ。 ヒカルは以前、霊体だった佐為が消滅した後、佐為を捜しにやって来た。それ以来2回目の訪問となる。 意外にも佐為は初めてだそうだ。来るならヒカルと一緒にと思ってましたから、と佐為は言った。 只、虎次郎と過ごした時には、当然因島にも居たのだから、初めてと言うのは可怪しいのかもしれない。 「あの頃とは様変わりしてますから、初めての感じがします。でも、綺麗な風景はあの頃のままですね。沈む夕陽が凄く綺麗だったのを、今でも覚えています」佐為は感慨深げに話していた。 「へえー。今晩見られるといいな」 「そうですね」 入館料を払って中に入る。 「進藤本因坊、いらっしゃいませ」 ヒカルを目ざとく見つけた職員が挨拶に寄ってきた。 「こんにちわ。俺の事知ってるんですか?」 「それは勿論。因島は囲碁の盛んな島ですし、秀策先生のお生まれになった土地ですから。本因坊就任おめでとうございます。これからも応援しとります」 「ありがとうございます。頑張ります」 二人でゆっくりと見学に回った。 前回来た時は佐為を捜すのに必死で、心落ち着けて見学するどころでは無かったのだ。 佐為は虎次郎が打っていた碁盤の前で、それをじっと見詰めていた。ヒカルはそんな佐為を、チラチラと横目で観察していた。虎次郎を懐かしんでいるのか、はたまた過ぎ去ってしまった日々に想いを馳せているのか、ヒカルにはよく解らなかった。おそらく数多の想いがその胸中にはあるのだろうなと、推察することしか出来なかった。 展示品には虎次郎の書き残した書や手紙などもあった。 「これ全部、虎次郎の書いた字?」 「そうですよ」 「本当に上手なんだな」 虎次郎は囲碁は勿論の事、書の方でも結構な大家だったらしい。そう言えばお皿も目利きのはずだったなぁ。 碁盤の裏面には、「慎始 視明 克終 無惑」 の文字が書き遺されており、ヒカルは佐為に読み方と意味を尋ねた。 「読み方はいろいろあるのですが、最初のは(慎んで始め 明らかに視 終わりを克 くし 惑うこと無なかれ) と読まれる事が多いです。つまり広くことを成す処世訓のようなものです」 「ふーん」 と返事をしたが、イマイチよく理解出来ない。塔矢だったら解るんだろうか? 今度会ったら聞いてみよう。 見学を終えてから虎次郎の墓参りをした。ヒカルが、こっちだよと案内をした。 「たしかこの辺のはず。あっ佐為、花とか線香とか持って来てないぞ」 「お線香はあります。お花はいいでしょう。ファンの方とかお参りにみえると、お花を入れる場所も無くなってしまいます」 「此処、此処だよ。ホント綺麗なお花がもうある。まだ新しいよなこの花」 「本当ですねぇ。どなたかいらしたんですね。じゃお参りしましょうか」 線香をそっと置いた佐為は「虎次郎、やっと会えました」 そう言って手を合わせ、後はただ黙って墓石を眺めていた。 いいや違うな、墓石の中に籠められている、何かを見ているのかもしれない。 やっぱ虎次郎の事が忘れられないのだろうか? それはそうだよな。今の俺とより長い時間過ごした相手だもんな。 ああまた、胸の中がモヤモヤと言い知れぬ感情で満たされていく。 亡くなった相手にヤキモチ妬いてどうすんだ。 少しは余裕ってものを覚えないといかん。でも亡くなった人には、永遠に勝てないって言うしなぁ。俺は色々複雑だよ。 「ヒカル、市のゲートボール公園に面白いものがあるそうです。行ってみましょう」 「ゲートボール公園? って。それより墓参りはもういいのか?」 「ええ、もういいです」 記念館でタクシーを呼んで貰い、行き先を告げる。 「なあ佐為、ゲートボールでもするのか?」 「違いますよ。着いたら解ります」 佐為はタクシーの運転手に、4時半頃に迎えに来てくれと頼んでいた。 時間を見たら2時だった。2時間半も公園で、何するんだろうと訝しんでいたヒカルだったが、間もなく疑問は氷解した。 「あー、テーブルの上に碁盤の目が刻んである。スッゲェーこれ。碁石もあるじゃんか。佐為知ってたの?」 「実際に見るのは初めてですけど。流石に囲碁の島です」 「このテーブルも高そうな石に見える」 「大理石ですよ」 「へえ、それはスゲェー。勿論一局打つよな」 「はい、お相手しましょう」 今日は天気も良く風も穏やかな日和で、ゲートボールに興じている団体もいたり、子供連れで遊びに来ている人達もいる。 「これで、寒いとか暑いとかって気候だったら、打っていられないよな」 「そうですね。ヒカルが黒番ですよ。ではお願いします」 「お願いします」 30分ほどは穏やかに進んでいた盤面は、佐為が先に仕掛けて来た手によって、激しさを増して来た。ヒカルも夢中になってしまった。佐為と打つのは本当に面白い。俺を鍛える為なんだろうが、色々な打ち方を常にしてくる。 「そう言えばさ、あかりから連絡があって、来年からキャビン・アテンダントになるってさ」 「おやまあ、それはそれは。めでたい事ですね。あかりちゃん頑張ったんですね」 「うんそうみたい。CAになるって難しいんだろ?」 「簡単ではありませんよ。楽しみですねぇ。そう言えば和谷君とは、その後どうなってるんですか?」 「ああその事? 俺も気になってはいたんだけど、わざわざ確認するのもなんだしって思ってたんだよ。で、ちょうどあかりから電話あった後に、和谷に聞いてみた。そしたら、別に付き合ってはいないって。只の友達だって言うんだ。デートとかしてないのか? って聞いたら、(会ってお茶飲んだり食事に行ったりするけど、特に進展ないんだよなぁ) って言うから、それをデートって言うんじゃないのかって言ったら、(そうなのかなぁ?) だって。あかりはCAになるって目標があるから、遊んでる暇が無いぞって言ってたな」 「そうですか」 「だけどさ、和谷はあかりの事が好きだと思うんだ。話してて何となくそう感じた。そういう理由があるから、無理に事を進めようとはしなかった気がする。あかりだって、忙しい合間を縫って和谷と会ってるんだから、まんざらでも無いと思うんだけど。きっかけさえあれば、うまくいくように俺は思う。佐為どう思う」 「ヒカルも中々観るようになったじゃありませんか。あかりちゃんが、CAの仕事に慣れて落ちついて来れば、進展あるやもしれませんよ」 「伊角さんも婚約したし、塔矢も社も彼女が出来たし。みんな春だよなぁ」 「ヒカルも彼女が欲しい?」 「エッ! ……おれ?」 「そう。女性を抱いてみたいと思わないの?」 「う~ん……。正直言うと思わないことも無い。だって俺、一生童貞のままかぁーって思った時に、ちょっと考えた事はある。だけど俺は佐為の傍を離れるつもりは無い。佐為が別れたいって言うなら別だけど……」 「そんな事は言いませんよ。もし、どうしても女性を抱きたかったら、そうしてもいいですよ。付き合うとか結婚するとかでなければ」 そう言われたヒカルは、ポカーンと佐為の顔を眺めた。 「マジで言ってんの? 佐為は俺が他の人と関係持っても平気なのか?」 「平気じゃありませんよ。だけど男性としてのヒカルの気持ちは、同じ男性の私にも解ります。貴方に後悔の無い人生を送って欲しいのです」 「……今の所、そういう気持ちは無いな」 「そう……」 その後打ち終わった二人は、迎えに来たタクシーでホテルに向かい、佐為が願っていた海に沈みゆく美しい夕焼けを堪能することが出来た。 この数年後、塔矢アキラは佐為とヒカルが住むマンションを訪問してる際に、ちょうど遊びに来ていた佐為の姪、橘 可奈子と出会い、お互い一目惚れの恋におち、アキラ26歳、可奈子25歳で結婚した。 華燭の典は盛大に執り行われ、二人共とても幸せ一杯の様子であった。 これを機に、元々塔矢の後援会を務めていたさる名家の当主は、老齢を理由に橘家、もしくは藤原家に務めてもらえないだろうかと打診があり、そういう事なら娘婿でもあるしと、橘家が引き継ぐ事になった。 可奈子と結婚したことで佐為の縁戚にもなり、ヒカルと佐為との結びつきも益々強くなった。 伊角さんのところは、可愛い女の子が生まれ、テキパキとオムツを変える伊角さんを見て、みんなで感嘆していた。 社は新しい彼女と付き合っているが、まだ結婚する気はないようだ。 まあ、そのうちな。と、こちらはマイペースの社だった。 そしてもう一組のカップル、和谷とあかりがどうなったかと言うと、あかりがCAになり1年が過ぎた頃、やっと仕事もそつなくこなし余裕も出てきたのか、和谷が結婚を前提とした交際の申し込みをした。 この時あかりは言ったそうな。 「おそーい!! いつ申し込んでくれるのかずっと待ってたのに、今頃なんだもん。もうほかの男見つけようかと思ってた」 「そ、そうなの? だってCAになるの大変そうみたいだったし、俺、他にも気にかかる事があって、中々言い出す機会がなかったんだよ」 「気にかかることって、ヒカル?」 「うん、そう」 「おバカさんねぇ。報われない恋にいつまでもしがみく程、愚かじゃありませんよーだ。私が誰を観て誰を想ってるのか、その目でしっかりと観てよね」 「はい、解りました。好きです。愛してます。一生大切にします。結婚して下さい」 と、大汗をかきながら告白した。 ちなみに汗をかくには、少し早い季節のはずだったが。 そして一年間の交際の後に結婚。 「さっさと結婚すりゃええやんけ」 そう社が言うと、和谷はションボリと呟いた。 「CAの仕事をまだ続けたいから、後一年はダメ!」 と、あかりに押し切られたらしい。 結婚しても、子供が出来るまでは、CAの仕事は続けるつもりだと。 状況が許すなら、子育てが終わった後も、仕事は続けたい希望があるが、それはその時になってみないと判らない。 稼げる時に稼いでおかないとね、ということらしい。この夫婦は完璧カカア天下の世帯になりそうだ。 和谷は結婚を申し込む前に、天元のタイトルをヒカルからもぎ取っていた。 タイトルを取れた事で、彼の中で踏ん切りが着いたのだろうと、ヒカルは思った。 この前後数年間は、誰かしら結婚をして、結婚式ラッシュだった。 そしてヒカルは、因島で女性の話になった時から6年後、28歳の時に一人の女性と関係を持ち、彼女はヒカルの子供を出産した。 この時の二人は、付き合ってるとか恋人の関係でも無く、ただ本当に一度きりの関係だった。 と言うのも、相手の女性はヒカルと佐為の関係をよく知る人物であり、たとえヒカルの事が好きでも、付き合う事も結婚も出来ない相手と承知していた。だから本当にただ一度のアバンチュールのつもりでいた。 それがこんな結果になってしまったのは、運命の皮肉としか言いようが無かった。