想恋歌
第四章 希くはその心に 第三十九話 2014.11.22
棋院には黄 が詳細を連絡した。今はICUにいるので、面会は出来ない旨も伝えておいた。 進藤棋聖・天元が、暴漢に襲われナイフで背中を刺されたという話は、その日のうちに棋院中に広まった。 面会出来ないと言われても、おとなしく待っている輩は何処にもいない。 棋院からはすぐに職員が向かった。塔矢はその棋院で事務方から話を聞いた。 「それで進藤の容態は?」 「手術は上手くいったそうですが、麻酔が切れて意識が戻らないと、何とも言えないそうです」 「そんな……」 塔矢は和谷に連絡を入れた。和谷は明日十段戦の第4局が愛媛県松山市である為、もうそろそろ出発する時刻だと思う。きちんと事情を話しておかないと、明日の対局に差し支えるかもしれない。 「もしもし、和谷」 「塔矢どうした?」 「今、何処。羽田?」 「おお、これから搭乗だ」 「そうか。対局の直前に知らされても困ると思うから、先に言っておく。進藤が暴漢に襲われてナイフで刺された」 「えっ! ウソだろ、おい! 容態は? 進藤はどうした」 「手術は成功したらしいけど、意識が戻らなくて今ICUに入ってる」 「……意識は戻るんだろうな。何処を刺されたんだ」 「右側の背中だって。肺に傷がついたらしい」 「お前、病院にはもう行ったのか?」 「これから行く所。ICUに入ってるから面会は出来ないと思うけど、ご家族の方か多分藤原さんもいると思うから、話が聞けるかもしれない」 「わかった。詳しいことがわかったら、電話かメールでもいいので連絡入れてくれ」 「うん、そうする」 そのまま棋院からタクシーを飛ばして病院へ急いだ。まさかこんな事が起こるなんて……。進藤に何かあったらどうしようと、その不安ばかりが膨れ上がる。失いたくない。こんなこんな早く、僕の大事な友でライバル。 昨日は嬉しそうに授与式に望んでいたのに。なんだか遠い出来事の様に思えてくる。 ○● 「ああ、吃驚した。まさか佐為が声掛けてくるとは思わなかったなぁ。危ない危ない。そうだった、進藤ヒカルの後援会だったな。誰かを庇って刺されたって言うのは、ひょっとして佐為だったのか?」 医師の控室に戻るなり盛大に溜息を吐いた男。 桂木颯太郎・30歳。都立総合病院の救命救急医。半年前に地方の病院から、その優秀さで請われ都立総合病院にやって来た。桑原虎次郎、後の本因坊秀策の記憶と魂を有する男。 幼い頃からその認識があった訳では無かった。只、何度も何度も同じ夢を見ていた。 囲碁を打つ夢。風光明媚な島の暮らし。平安装束を着た綺麗な男。江戸の世界。流行り病で亡くなる人。それらの事柄がゴチャゴチャになり、夢の中に現れていた。だから、幼い時は全く意味も判らず繋がりも解っていなかった。 中学に上がった頃には、夢の中の出来事も整理されてきて、若干繋がりも理解出来る様になった。どうやらこれは自分の前世の記憶ではないだろうか? と考えるのに時間は掛からなかった。 しかしすんなりと、前世の記憶を持つ人間が居るとか、輪廻転生などの話を信じていた訳ではない。そう言った事柄を色々調べたり文献など調べたりしたが、今ひとつ納得出来るものでは無かった。 囲碁の本を紐解いたりし、試しに打ってみたら……出来てしまった。これはいささかというか、かなり衝撃的な出来事であった。其れまで碁石にさえ触れたことも無かった。勿論碁のルールなども解っていなかったが、それでも躊躇なく打つことが出来た。 では一体これが、前世で誰の記憶なのか? あの島は何処の島なのか? 平安装束の綺麗な男が誰なのか? それに関しては大学に入学してからも判然としなかった。 桂木颯太郎の家系は代々医療に携わって来た者が多い。だから至極当たり前に、自分も医療の道を目指した。 其れに疑問を覚えたりもしなかったし、今でも医療の道を選んだ事を後悔はしていない。 大学も東京の医学部に進んだ。医師になるには生半可な気持ではなれない。毎日毎日勉強に明け暮れる日々を送る。時間はいくらあっても足りなかった。いつまでも夢の中の出来事に囚われている訳にはいかない。高校に入学してからは、医学部受験の為に勉学に費やす日々。 そして念願の医学部に合格してからも、毎日が勉強の日々。いつしか夢の出来事も余り考えないようになった。 そんなある日、颯太郎が医学部6年生の24歳を迎える頃、その出来事に遭遇する。 その日は市ヶ谷にある友人の家から朝帰りする所だった。友人の家からまっすぐ降りていけば市ヶ谷駅がある。その途中に日本棋院があるのは当然知っていた。本を片手に開きデイバックを肩に掛け、駅を目指して歩いていた彼は、もう少しで棋院の正面に差し掛かろうという時、つと目をあげた先にそれを認めた。 棋院に入って行く金色の前髪をした少年と、その後ろに従う烏帽子に狩衣・狩袴の、平安装束に身を包んだ綺麗な男性を。その瞬間、雷に直撃されたような衝撃に襲われた。 手の中からすり抜けた本が地面に落ちた音に、平安装束の男性の視線がこちらに向けられる。 颯太郎を気遣わしげに見詰めるが、誰かに呼ばれたらしい風情で、棋院の中に入っていった。 様々な記憶の欠片が奔流となり押し寄せる。激しい眩暈と頭痛、こみ上げる気持ち悪さに堪え切れなくなり、その場に膝を着き蹲る。通りかかった人達が、大丈夫ですか、救急車呼びましょうかと尋ねるが、大丈夫ですと丁寧に断った。 夏前の5月の今日は、朝から気温が高かった。だが颯太郎は顔面蒼白で鼓動も早かった。これは少し何処かで休んだ方がいいと思い、棋院の喫茶室に入っていった。其処が一番近かったのが理由なんだが。 席に座り水を一杯飲み、糖分補給の為少し甘目の飲み物を頼む。一口飲み気分を落ち着かせる。テーブルに肘を着き両手を口元に当て、瞼を閉じ瞑目する。 『佐為……』藤原佐為。 自分に憑いていた平安時代の囲碁指南役。自分は桑原虎次郎、後に本因坊秀策となった碁打ち。風光明媚な因島、本因坊家、御城碁、耳赤の一局、江戸の町並み。バラバラだったパズルのピースが、カチリと収まり心の中に落ち着いた。 あの佐為が実体の筈は無い。あんな服装の人間が歩いていれば、目立つ事この上ない。とすると、今はあの少年に憑いている訳か。 佐為……生きていたんだ。違った、生きてないや。ずっと一緒にいたから、つい生きてる人間としての感覚になってしまう。自分が亡くなった後、佐為はどうやって過ごしていたのだろうか。どのようにして今の少年と遭遇したのだろうか? 私の姿を捉えたけれど、以前の自分とは姿形が違うから判らないだろうな。佐為からはすべての人間が見えるらしいが、佐為を見る事が出来る人間は、多分殆どいない。 自分も見えたということは、あるいは前世の時と同じ、意思疎通が可能かもしれない。 だが……。 颯太郎はこの後もずっと、佐為に接触することはしなかった。理由は自分でも説明出来なかった。怖かったのかもしれないし、今憑いている少年を気遣ったのかもしれない。 会って話をしたいと勿論思っていた。自分が亡くなった後どうしていたのか? 今の自分が虎次郎だと伝えたかった。でも何故か、躊躇ってしまった。 佐為があの状態で居るということは、成仏出来ていない証だ。 自分の臨終の間際に『佐為お前も一緒に行くのだ。もう成仏しなければいけない。私の手を取って一緒に旅立つのだ』確かそのように言ったと思うが、佐為は『嫌だ。私はもっと打ちたい。まだ神の一手に届かない。虎次郎、死なないでおくれ』そんな事を繰り返し言っていたな……。 それから何ヶ月かに一回は、進藤ヒカルという少年を垣間見に、棋院と囲碁研修センターの近くに行った。彼は院生で夏から始まったプロ試験を受けていた。行動範囲は調べなくても容易に見当がつく。 進藤ヒカルの棋譜を見たかったが、彼はプロではないので公の棋譜が無かった。それでプロ試験の結果を逐一見ていたが、どうも佐為が打ってるようでは無いなと思った。佐為が打って負ける訳が無い。 あんなに自分で打ちたがっていた佐為が、この少年には自ら打たせている。虎次郎である自分が亡くなり、ざっと140年の時間が流れている。その間、佐為に心境の変化でもあったのだろうか。 そうやって何度か進藤ヒカルを見に行っていたある日、その姿を確認する事が出来なくなった。自分の目に映らなくなっただけなのだろうか? 進藤ヒカルは既にプロとしてスタートを切っていたが、その彼も大手合いがあるにもかかわらず、棋院に出てこない日が続いていた。 学校帰りの彼を観察してみたが、どうも佐為は消えてしまったように見えた。つまり佐為は成仏したということか。あんなに碁に未練を残していたのに、何故佐為が成仏する事態が起こったのか、颯太郎には判らなかった。 それ以来、進藤ヒカルの側に行くことは止めにした。 そして月日は流れ4年余り経ち、故郷の病院で救命救急医をしていた颯太郎は、学会の為に上京しホテルウィステリアに来ていた。其処で2度目の衝撃事態に遭遇するとは、これは何の因果であろうか。 その日は北斗杯という、18歳以下の棋士が参加する日・中・韓の棋戦があるようだった。 「囲碁大会か……。そう言えば彼は18歳ぐらいになったんじゃないかな」 大盤解説の会場があるらしい。其処なら誰でも入れるだろうから、少し覗いてみるかな? 軽い気持ちで立ち寄った会場で、進藤ヒカルは選手として戦っていた。 パンフレットに載っている顔写真は、あのころの幼さが抜け青年の顔立ちをしていた。打ち筋をみれば、やはり佐為の棋風が垣間見える。 暫く見学していたが、そろそろ戻らねばならない時間になったので、会場を後にした。足早に歩いていると、前方から友人らしき人と連れ立って歩いてくる彼を見つけた。 その時もかなりの衝撃に見舞われたが、こういう事態をある程度想像していたこともあり、前の様に蹲る程ではなかった。自分が輪廻転生したのなら、あるいは佐為もと考えたこともあった為だ。 しかし、何から何までこうまでそっくりとは。違うのは服装と背の高さ。髪も前よりは短いかな? 近くに居るホテルマンを捕まえて、何処の誰かと聞いてみた。教えてくれないかと思ったが、あっさりと教えてくれた。 藤原コンツェルンの藤原佐為。名前まで一緒とは神の悪戯か。佐為は転生したという認識があるのだろうか? こればかりは、この時点では確かめようが無い。 が、それから間もなく、藤原が棋院のバックスポンサーになり、進藤ヒカルの後援会に就いたという話を聞き、佐為は転生したという認識があるなと思い至った。 佐為はどんな状況・状態で自分が転生したという認識を得たのだろうか? あって聞いてみたい事、話したいことは山程あったが、颯太郎はこれ以降も佐為には接触しなかった。 もうあの頃の二人とは違う。お互いに其々異なった人生を歩んでいる。佐為は自分の半身であり、自分は佐為の半身だった。だが、……もういい。お互いを解放するべきだと、そう思っていた。 佐為が幸せであるなら、それだけで……いい。 ○● ――神、神よ、私の声を聞き届けたなら、私に与えられし恩寵 を、ヒカルに分け与えて 今一度 、私の願いを聞きいれて、神よ……応えて神よ!! ―― その刹那、佐為の前にボーッと姿が浮かび上がった。天界に在る神だった。 《佐為よ、その者を助けろとでも言うのか》 ――そうです。神ならば造作も無いはず―― 《なればそなたの命と引き替えじゃと申したらどうする。その者が目覚めた時にそなたが在らねば、嘆き悲しみ自らの命を絶つかもしれぬぞ》 ――それでも……それでもヒカルを死なせたくはありません―― 《ヤレヤレ、そなたという男は。ほとほとバカじゃのう》 ――神、バカとはどういう意味ですか? ―― 絶対零度の佐為の声音が、神を震え上がらせる。 《あ、いや、気にするでない》 《ああーもう解ったわかった。だがな佐為、最初にそなたに与えた命の刻限は40年じゃ。その者を助けるとなれば、命の刻限は減ることになるやもしれん。それでもよいのだな》 ――それで、それで構いませぬ―― 《あい、わかった。ならば助けよう。天界に来たら毎日囲碁の相手をせぇよ》 ――ありがとうございます。遍 く神よ、感謝します……―― 《たわけ。感謝するのはワシだけでええんじゃ》 ○● 「佐為、佐為ッ、起きて下さい」 「……! えっ、あれ? 寝てましたか私?」 「そのようですね。支配人が来てますよ」 夢……? 「呼んでも貴方が出て来ないから、支配人が途方に暮れてましたよ。だから私が入らせて貰いました」 「すみません。片原さん、申し訳なかったですね」 「いいえ。進藤様の状態は如何ですか? オーナーも顔色がお悪いです。大丈夫ですか?」 「大丈夫です。手術は上手くいきました。後は意識が戻るのを待つ状態です。報告してください」 「あの後警察が到着するまでに、ご気分の悪くなられた女性客の方は4名おられましたが、少しお休みになり回復されましたので、全員タクシーの手配をしてお帰りになりました。医師の診察でも問題ないと言うことです。皆様、進藤様の事をご心配されてました。鑑識の調査が終わって、壊れたり血痕の付いた備品は片付けました。また、警察からは防犯カメラ映像の提供要請があり、すべて渡しました。あの区域だけまだ使用が出来ないので、パーテーションで目隠しして、周りのレイアウトを少し変更しております。それから何処で聞きつけたのか、マスコミが既に駆けつけて取材しております。従業員には硬く口止めしておきましたが、お客様へのインタビューはこちらでも対処しきれませんでした」 「そうですか。マスコミはこちらで対処します。片原さんお疲れ様。もう少しお願いします」 かしこまりました。と支配人が退出して行く。 其れまで脇に控えていた黄が、心配そうに声を掛ける。 「佐為、顔色大分悪いですよ。大丈夫ですか? 少し横になったらどうです」 そうしてる間にも次から次へと電話が入る。兄達と奈津姉さんからも入り、其の度に事情を説明しなければならず、それだけでも疲弊してくる。 「やれやれ、これじゃ休むどころじゃないですね」 「そう言えば黄も楊も、お昼ご飯食べて無いですよね。もうお昼の時間かなり過ぎましたけど」 「もう夕刻ですよ。もう少ししたら夕食を一緒に食べましょう」 「私は食べたくありません。二人で食べてきて下さい」 「駄目ですよ。何言ってるのですか、そんな弱気になって。しっかりしなさい! 今戦ってる進藤君に恥ずかしくないのですか。元気な貴方の姿を見せなければ、目覚めた彼が悲しむでしょ」 「黄……」 「佐為、私達の前では泣いても喚いても構いません。全部受け止めてあげますから」 「黄ったら、いつになく優しいですね」 「失礼な。私はいつも優しいじゃないですか」 泣き笑いの様な表情を浮かべ、黄の肩口に顔を埋めてしまった佐為。 『おっと! これは相当参ってますね』 「私が守らなければいけないのに……」 ドアがノックされ「おい、入るぞ」と楊が現れた。 「何やってんだ、お前ら……」 二人の抱擁もどきを目にして、まさに目が点になってしまったようだ。 「なんでもありません。楊、もう少ししたら夕食に行きますよ」 「……ああ、わかった」 その時フロントから「塔矢アキラ様がオーナーに面会を求めてますが、どう致しましょうか」と連絡があった。 「こちらにご案内してください」 「誰か来たのか?」 「塔矢アキラが来たようです」 「ああ、成る程な」 案内されて来た塔矢アキラが入室して来る。 「失礼します。あ、楊先生・黄先生お久しぶりです。藤原さん、大変なときにお邪魔して申し訳有りません。今し方病院の方に寄って来ました。一応お父さんにお話伺って来ましたが、自分も警察からの話なので、詳しいことは藤原さん達に聞いた方が良いと言われました。進藤はまだ意識が戻ってないようでした」 「そうですか」 「あの、何があったのか教えて下さい。進藤が藤原さんを庇って刺されたと聞きました」 「その通りですよ。私と黄が、犯人に背中を向ける形で立ち話してたんです。其処に地下のショップから戻ったヒカルが、多分その男がナイフを持ってるか、抜くのかを見たんでしょうね。その間合いにヒカルが滑りこんで来たんです」 「薬か何かで精神錯乱してるようでしたから、襲う相手は誰でもよかったんでしょうよ。訳の解らない事を喚いていましたのでね」 「俺が進藤君の前を歩いてりゃよかったな。そうすれば事件になる前に組み伏せれたのに。進藤君だと相手に応戦するより、お前を庇う方に意識が向いたんだろうな」 間が悪かったよなと言いながら、黄と楊が補足説明をしてくれる。 「あの、進藤は大丈夫でしょうか? 僕、僕は……」 「塔矢君、悲観的にならない。手術は上手く言ったと医師も言ってます。肺裂傷もそれ程酷く無いということです。目覚めるのを待ちましょう」 「はい。すみません黄先生」 韓国では黄から連絡を受けた棋院が、対応に大わらわしていた。タイトルを取ったばかりの進藤ヒカルが、暴漢に襲われたという事は、ショッキングな出来事なのだ。 その中でも、一際恐慌状態一歩手前なのは、高永夏 だった。今すぐ日本に行くと言うのを、秀英 と安太善 が必死に押し留めていた。 「明日対局があるんだから、今から行ける訳無い。対局すっぽかしなんかしたら、後で進藤に怒られるよ」 「そうですよ、少しは頭を冷やしなさい。黄先生の話じゃ今すぐ危ない状態では無いということですし、手術も上手く言ったということです。状況を連絡してくれると言ってましたから、それを待ちましょ。明日の対局に集中しなさい」 ちょっと酷だなとは太善も思ってはいたが、永夏はこのぐらい言わないと言う事を聞かない。 「僕も一緒に行くから、チケット手配しておく」 不承不承、二人の言葉に納得したらしい。これで日本に着いたらどうなることやら。先が思いやられるな。 珍しく溜息を吐く秀英。 進藤……どうか無事でいてくれ。