想恋歌
第四章 希くはその心に 第三十二話 2014.8.31
部屋を出てきた佐為は、激しい自己嫌悪に陥っていた。ひと目がなければ、頭を抱えて蹲りたいのだが、かろうじてそれは堪える。鉄壁の心臓・氷の心臓と呼ばれる藤原佐為だが、こと、進藤ヒカルに対しては全く通用しないのは、自分でもよく認識している。 「いつまでも待つとか、気持ちを押し付けたりしないって誓ってたのに、ウソばっかりですねぇ私」 溜め息が零れる。ヒカルの言葉に思わず我を忘れてしまうなんて。 ヒカル、意識しだしてるんですね。でも踏み込む所までは、まだ来てない感触を受けた。 身体が震えてましたね。明日どんな顔して会えばいいんでしょうか。私、勃っちゃんたんですよね。口づけしただけで勃つなんて、ああ~情けない……。 ふたりして同じことを思ってるとは夢にも知らず。 しかし、ジャケットだけでは流石に外は冷え過ぎる。そろそろホテルに戻るとしましょうか。 ヒカルはもう寝てるだろうか? 寝ててくれると、ちょっとありがたいのですが。 めったに見られない、気弱な藤原佐為の姿がそこにはあった。 そっーと部屋の扉を開けて寝室に向かう。どうやらヒカルは寝入ってるようだ。規則正い寝息がしている。 ヒカルのベッドの側に座り込み、片手で手を握り空いた手で髪を梳いてあげる。 「ヒカル、ごめんなさい。つい我を忘れてしまい私は……」 ヒカルの手を握りこんだまま、ベッドに顔を埋めていると 「なんで謝るの佐為」 ヒカルがパッチリと目を開けて佐為を見ている。 「ヒ! ヒカル……寝てたんじゃなかったの?」 「寝れる訳ないだろーが」 ガバッと起き上がった。 「最初は寝ようと思ってベッドに入ったけど、佐為は帰ってくるかなとか、色々考えてたら寝られなくなった。ビックリした? 佐為が入ってきた時に、寝たふりしてたんだ」 悪戯が成功したヤンチャな子供の笑顔を浮かべている。 「ヒカルったら……。怒ってますか?」 「怒って欲しいのか。吃驚はしたさ。俺ファーストキスだったからさ、頭真っ白になるわクラクラするわで、何をどうしていいのかさっぱり分かんなかったし。俺のファーストキスの相手、男になっちゃったじゃんかぁ」 「すみません……」 「まぁいいけどさ。それに謝るのは俺の方だ。俺が佐為に訳の解らない変なこと言っちゃったから」 「ヒカルのせいではありません」 「なあなあ、一局打とうよ」 ベッドから飛び降り、肩掛けバックからゴゾゴソとマグネット碁盤を出してくる。 「ホラ佐為、ベッドの上に座って座って。俺先番でいい?」 佐為はそっと笑いながら 「手加減はしませんよ」 そう言いながら、白石を打った。 午前3時も過ぎた頃、ヒカルが投了。 「ああ~、また負けたぁ」 ベッドにゴロンと横になると「佐為、ねむーい」 ボソッと呟いた。 「ホラ、ベッドの中に入って寝なさい」 ウン、と返事しながらノロノロと動き、掛布の中に潜り込む。佐為が肩口まで掛布を引き上げてやり、 「おやすみなさいヒカル」 「おやすみー佐ぁ為」 ○● 程なく、スースーと規則正い寝息に変わってきた。それを確認してから用意してあったナイティに着替え、自分もベッドに入る。だが、中々寝付けなかった。色々な事を考えてしまう。隣にはヒカルが寝ている。どう足掻いてもとても眠れる状況にない。 寝るのは諦めてベッドから出る。 佐為は甘く切なく狂おしい気持ちに心を震わせ、ヒカルの寝顔を暫く眺めていたが、リビングの方に移動してコーヒーを入れ、眼下の景色を眺めたりソファーに座り暫く身を委ね微睡んでいたりした。 ヒカルがあんな事を言い出したのは、パーティーでの事が原因だろうと思う。確かに紹介された女性達は、粗結婚を目的としたものだった。中には露骨に、部屋を用意してるからと誘ってくる人物もいた。既成事実でも作り上げておこうという腹積りかもしれない。 自分はその手の誘いには慣れているので、どうということはないが、塔矢君は対応に困った事だと思われる。 今回の件でヒカルの碁に影響が出てしまったら、私は悔やんでも悔やみきれ無い。そうならないように心を傾けて、ヒカルを導いていかねば。私の責任において、きちんと努めを果たさなければ。 つらつらそんな事を考えていたら、夜が明ける頃になり寝入ったようだ。 部屋のチャイムが鳴る音に気づき目が覚める。ああそうだ。朝食のルームサービスが頼んであったのだ。 「おはようございます藤原様。朝食をお持ち致しました」 流石に礼儀の行き届いたホテルマンの所作。 「ありがとう。お願いします」 昨夜は中華だったので今朝は和朝食を頼んでおいた。小鉢、卵料理、煮物、焼鮭、海苔、香の物、みそ汁、ご飯にお茶のメニューだ。これだけあれば多分ヒカルの胃袋も満足させてくれる。 ベッドルームに行きヒカルを起こす。 「ヒカル、ヒカル、そろそろ起きて下さい。朝食の用意が出来てますよ」 「うぅ~ん」 身じろぎしながらうっすらと瞼が開く。 寝返りをうちながら「もう起きる時間?」 もっと寝たいよぉ~と掛布の中に潜り込む。 「朝ご飯が冷めますよ」 「朝ご飯! ルームサービス頼んだの?」 「そうです。食べるでしょ?」 「うん食べる」 「じゃ、顔を洗っていらっしゃい」 ウン、と言ってやっと起き上がる。うーん眠てぇなぁとボヤキながらも、バスルームに向かう。 「フィ~、顔洗ったらさっぱりしたぁ。あれ、和食にしたんだ」 テーブルの上には美味しそうな料理が並べられている。 「昨夜中華だったから和食がいいかなと思って」 「うんいいよ。じゃいただきまーす」 行儀よく手を合わせ、お味噌汁に手を伸ばす。 「ウンマー。美味しいな佐為」 「ええ、美味しいですね。ご飯のおかわりありますよ」 自分の皿から玉子焼きを一切れ取り、ヒカルのお皿に移してあげる。 ニコッとしたヒカル。「昨日さ、塔矢先生と何話してたの?」 「ああ、対局の申し込みをされました」 「対局! ホントに? で、どうするの受けたの?」 「ええ受けました。でもギャラリーの入らない環境でしたいので、場所と日にちは私の方でセッティングすることにしました。第1局の棋聖戦の後にします。ヒカルはどうします?」 ヒカルは不安だった。自分が対局に同席したら、また佐為が消えてしまうのじゃないかという思いに囚われていた。躊躇いがちに佐為に確認してみる。 「俺が一緒でもいいの?」 「勿論構いませんとも。どうしたのです。何か不安な……。ヒカル、私が又消えるとでも思ってるのですね」 「だって……」 佐為は席を立ちヒカルの側に膝をつき、両手を握りしめる。 「大丈夫です。昨夜も言ったでしょ。決して貴方を一人にしないって。だから心配しないで」 ○● そして佐為は俺の手を握り締めたまま語りかけた。 ――人の世には手放したくなくても、手放さなければならないものがあります。諦めたくないけれど、諦めなければいけない時もあります。でも絶対に欲しいものは、その手を決して離さず掴み続けなさい。―― 佐為は穏やかな表情で俺の顔を見詰めている。俺はコクンと頷いた。 「他の人は呼ばないの?」 「塔矢先生は一度心臓発作起こされてますから、お一人で外出して頂くのは心配です。何方かお一人ご一緒して頂くのがいいですね」 「そしたらやっぱ塔矢がいいんじゃないか」 「そうですね。塔矢君かもしくはそれに代わる人ですね」 ヒカルは塔矢に、いつか佐為の事を話すかもしれないって言ったことがある。塔矢や和谷は佐為の謎に迫りたいと考えてるに違いない。だけど幽霊だった佐為が俺や虎次郎(秀策)に取り憑いていて、囲碁を教えて貰った、代わりに打っていたとは、口が裂けても言えそうになかった。 幽霊が取り憑いてましたなんて話、普通は信じられ無いし信じろという方が無理だと思っていた。そんな事を言い続けていたら其れこそ気狂い扱いされかねない。 でも、だからこそ佐為と塔矢先生の一局を塔矢に見せてやりたいと思っていた。幽霊だった佐為に囲碁を教えて貰ったんだよと言葉で紡ぐ事は出来なくても、対局を見る事で塔矢が何かを感じてくれればいいのじゃないかと。 ヒカルは自分の思いを佐為に話して聞かせた。佐為が消えてしまい囲碁を打つ目的を失っていた時の事。 復帰した時に塔矢と打った対局で、俺の中に居る佐為を見つけた事を。 「成る程、そんな事があったのですか」 「うん。塔矢が俺の中に居る佐為を見つけた時、俺凄く嬉しかったんだ。すべての真実を塔矢に話して聞かせる事は出来ないけれど、だからこそ塔矢に見せてあげたいと思って」 「解りました。では塔矢君のスケジュールも確認して、予定組みましょう」 「うん!」 この先も二人は良きライバルとして歩んで行ってくれることだろう。囲碁は等しく才長けた者が二人揃って、初めて名局が生まれると言われている。進藤ヒカル・塔矢アキラ、この二人ならば後世に語り継がれる棋譜を残してくれると信じている。その為に力になれる努力は惜しまない。 まだ幽霊として取り憑いていた頃、新初段の対局の相手が塔矢行洋と知った時、自分に打たせてくれと我儘を言った事があった。あの頃はヒカルが段々と強くなっていくにつれ、打てる回数が減ってきていた。その状況に苛立ちヒカルとの関係もギクシャクしたものになっていた。 其処に塔矢行洋との対局が舞い込んだ。私は我を忘れた。何としてもあの者と打ちたかった。これを逃したら次はいつ打てるのか判らない。私に打たせてくれとヒカルに迫った。 「バカ言うな。お前が打ったら塔矢先生に勝ってしまうじゃないか。そうしたら俺はまたお前の影を背負うことになるんだぞ」ヒカルは頑強に拒んだ。 私は声をあらん限りに叫んだ「背負 えばいい!!」 そう叫んだこの言葉を今でも後悔している。一度口から出した言葉は引っ込める事が出来ない。ヒカルが私に対してある種の負い目を感じているように、私もヒカルに負い目を感じている。だから私は現世に蘇った時に、この先はヒカルの為だけに生きようと誓った。 彼が苦しむ事のない様に、悲しむことのない様に、幸せでいてくれる様に、そして遥か高みを目指して行ける様に。私が目指した《神の一手》 を、ヒカルが目指して行ける様にと……。 感慨に耽っていたら、異次元の言語が聴こえてきた。 「オレモンデジュウズも、たももんだの? (オレンジジュースも頼んだの)」 「ヒカルぅ、口の中に食べ物を入れたまま喋るのは止めなさいって言ったでしょ」 「ふぁ~い」 「ヒカルの耳は通気孔ですね」 「ん?」 視線を上に飛ばし考えてる様だったが、首を竦めモクモクと食事に専念しつつ、チラッと上目遣いに佐為を見上げニヤッとしていた。 食事も終わりチェックアウトの時間も迫ってるので、身支度を整えて部屋を後にする。 「佐為は今日仕事なの?」 「ええ、午後に本社で会議があります。ヒカルを家まで送ったらそのまま向かいます」 「忙しいんだったら俺いいよ。一人で帰るし」 「時間はあるから大丈夫です」 エレベーターの中で会話していた二人。フロントがある2Fに到着する直前、「佐為」 ヒカルの呼ぶ声につられ顔を向けると、突然ヒカルがチュッとキスをして来た。タイミングよくエレベーターの扉が開く。 「お返しだぁ!」 勢い良く駆け出していくヒカル。呆気にとられてエレベーターに居残る佐為をヒカルが呼ぶ。 「佐為、ホラ早く行くぞ~」 溢れんばかりの笑顔を浮かべて手招きするヒカルに、佐為も満面の笑顔で足を一歩踏み出す。 ○● 31期の名人リーグ戦はヒカル・社・伊角が共に入り込み、伊角は9日に社は16日の金曜日に、1回戦を対局し見事に勝利した。続いてヒカルは23日のリーグ1回戦に臨み、こちらも勝利した。 9名で戦うリーグ戦。名人リーグは上位6名が次のリーグ残留となる為、実質は3枠を残りの棋士で争うことになる狭き門。メンバーも錚々たる顔ぶれで、畑中・緒方・倉田・芹澤・座間・一柳・ヒカル・社・伊角。 社は名人リーグ入で七段に昇格した。 同じく23日の十段戦の敗者復活戦4回戦。芹澤棋聖対門脇は芹澤棋聖が制し、和谷との5回戦の対局に臨む。 26日月曜日に行われた王座戦第5局は、倉田が勝利し王座タイトルを奪取した。緒方のタイトルは十段と碁聖の2種類となった。 ヒカルは27日本因坊リーグ3回戦に臨んだが、一敗を喫し二勝一敗になった。 こうして少々波乱に満ちた年が終わり、明けて2006年1月5日は日本棋院の打ち初め式。 ヒカルは昨日まで実家に戻り、ダラダラーっと正月休みを過ごしていた。祖父ちゃんの家にもお年始とやらに、父・母と一緒に行ってきた。ヒカルの天元タイトルのお祝いもさることながら、祖母ちゃんが年末から少々身体の具合を悪くしているとの事で、お見舞いも兼ねていた。 幸いなことに病院で点滴などの手当を受け、回復に向かっているという事で一安心した。 母の美津子は年末からこっち、食事を作り届けていた。時にはヒカルが代わりに届けたりもした。 「祖母ちゃんまた来るから、早く良くなってよ。俺祖母ちゃんの作ったご飯が食べたい」 「わかったよヒカル。お前も仕事無理しないでおくれよ」 「うん大丈夫。今度対局でドイツ行くんだよ。お土産何がいい?」 「なんでもいいよ。でもそうだねぇ、ドイツのお人形があったら頼めるかい」 「おK~」 軽やかに笑ってVサイン掲げて見せる。 9日には芹澤棋聖 ? 和谷の、十段戦敗者復活戦5回戦が行われ、和谷が勝利する快挙を成し遂げた。 事前の予測では圧倒的に芹澤棋聖の優位と見られていた。 和谷も力をつけてきてはいるが、幾つものタイトル戦を戦っている芹澤に対して、圧倒的な経験不足と力不足の感はどうしても否めなかった。 これで残るは26日行われる挑戦者決定戦。これに勝てば晴れて緒方十段への挑戦権を獲得できる。相手は本戦を無敗で勝ちあがった倉田九段。 和谷は口にこそ出さなかったが、強敵ばっかりだぜと思っていた。つい弱気になってしまう自分を叱咤した。塔矢や進藤だってこの重圧と闘ってきたんだ。このぐらいの事で負けてたまるか! そして12日には成田から棋聖戦に臨むため、日本棋院ご一行様総勢12名が、ドイツ・フランクフルト空港に飛び立った。