想恋歌
第三章 揺蕩う想いに 第三十一話 2014.8.21
道玄坂碁会所 「イヤッター!! あのガキャーやりおったー! マスター見たか見たよな?! おい、みんな見たよな?」 「ちゃんと見てるよ。河合さん、いい加減ガキ呼ばわりは、止めたほうがいいんじゃないのかい」 マスターに嗜められるも、馬の耳に念仏状態。 河合だけでなく、全員が心の底から喜び浮足立っている状態では、何を言っても馬耳東風。 「イヤー、本当にワクワクしたねぇ。この間此処に来た時にいつもと何処か違ってたからよぉ、俺はイケると踏んだね」 「あぁ? 河合さん違うだろ? 何処か違うから不安だなって言ったろ」 堂本に突っ込まれ「何言ってヤンでぇ。堂本さんの聞き違げぇだよ」 「聞き違いね……そうかい」 みんな、ヒカルが大好きで可愛がってくれる人達だ。 一方進藤家では 「あら、お義父さん、どうしたんです?」 突然前触れもなくやって来た義父・進藤平八に、ヒカルの母美津子が驚いて声を掛ける。 「どうしたじゃないよ美津子さん、見とらんかったのか。ヒカルがやりおったぞ。天元タイトル取ったぞ。わしは嬉しいぞ」 「天元タイトル? それは?」 ヒカルの祖父ちゃん、派手にコケた真似をした。 「相変わらず何も知らんのじゃな。ヒカルが碁界の頂点に立ったってことだよ。タイトルというのは7種類あってな、そのうちのひとつが天元だよ。他にもほれ、ヒカルが去年取った竜星とか後NHK杯とかあるけど。正夫はまだ帰っとらんのか?」 「はい、まだです。じゃ去年とった竜星というのより凄いんですか?」 「むろんじゃ。また取材とか騒がしくなるぞ。塔矢名人と揃ってタイトルだからな。うんうん、先が楽しみだわ」 「塔矢名人って、塔矢君の事ですか?」 「そうよ。美津子さんお茶くれんか」 「あっ、すぐに。へぇー塔矢君もタイトル取ったんですね。私も仕組みぐらいは少し覚えた方がいいですね」 「そうだな。そうすりゃヒカルが今何に向かってるかってのも分かるしな」 「名人と天元とどっちが上とかあるんですか?」 「んー、優劣つけるのもどうかと思うが、賞金額でいったら名人は天元の倍以上あるかな」 「へぇー、ちなみに天元は幾らなんです?」 「確か1,400万だったかな」 ガラン・ガラガラン! 美津子ママ、お盆を取り落とした。 「美津子さん大丈夫か?」 「すみません、大丈夫です。そんなに貰えるなんて吃驚してしまって」 「囲碁も将棋も勝負師の世界じゃからな。勝ちあがって賞金稼ぐのが仕事じゃ。天元の賞金ぐらいで吃驚しとったら駄目だよ。今度棋聖戦に挑戦するんじゃぞ。それに勝ったら4,000万ぐらいはあるんだから」 「よ! よんせんまん……。お義父さん、息子がなんだか遠い世界に行った気がします」 「ハッハッハッ、子供とはそういうもんじゃ」 この後更に、自分の息子が遠い世界に入って行くとは、夢にも思っていない祖父と母であった。 ○● 17日の土曜日には、塔矢の名人允許状授与式とパーティーが行われた。囲碁・後援会関係者は言うに及ばず、碁会所の面だったお客さんも招待されていた。 そして何より参加者の度肝を抜いたのは、塔矢アキラがオカッパじゃ無かったことだった。 「ギョエー! 塔矢が髪切ってるぞ」 和谷や伊角その他の囲碁仲間と一緒にいるヒカルが、驚きの言葉を発するが、式の真っ最中なので気を使い極力小声で。 「ホントだぁ~ビックリだな。でも中々似合う。伊角さんみたいな感じだな」 「まあ塔矢も大人なんだし、いつまでもオカッパじゃイヤだったのかもな」 「そんなもんか?」 「そんなもんだよ進藤」 式が終われば後は和やかにパーティーだ。主賓はあちらこちら挨拶回りに忙しい。 「進藤、お前藤原さんと一緒にいなくていいのか?」 「何で一緒にいなきゃいけないんだ。佐為は別に俺の保護者じゃないぞ」 どうみたって保護者じゃねぇかと思ったのだが、懸命な和谷は其処には触れず 「そうだな。あっちは大人の交流で忙しいみたいだしな」 その佐為の方を伺うと、色々な業種の会社の人達と名刺を交換しながら、話し込んでいる。藤原コンツェルンと絆ぎをとっておきたいと考える人達は多いらしい。 其処には、どう見ても囲碁には全然関係ない、若い女性まで混じっている。どうやら父親と一緒に来た様であり、佐為とか塔矢はそんな女性達とも挨拶している。女性達はみな一様に顔が赤らんでいる。 そんな光景をずっと見続けているせいか、ヒカルは少々不機嫌になっていたらしい。 「進藤、顔が強張ってるぞ」 伊角さんに指摘される。 「えっ、そう? なあ伊角さん、何であんな若い女性がたくさんいるの? あの人達って囲碁に関係ないよね」 「そりゃあの女性達は関係無いけど、スポンサー関連だから父親が連れて来たんだろ。この機会に売り込んでおこうってことじゃないのか」 「売り込む? 何を?」 呆れ果てた様に全員がヒカルの顔を眺めている。 「お前はホントに……。結婚に決まってるだろ」 それを聞いたヒカルはポカンと口を開けて、 「けっこん? エッ! 塔矢にも?」 そういうことだよ。和谷に言われ「だってまだ19歳だぞ俺達」 「18歳になってれば結婚出来るんだから、今のうちに将来有望な人材を確保したいんだろうよ」 「…………」 そういう事なのか。それが解らない子供でもないし、でもそういう世事を、すんなり受け入れられる程大人じゃない、中途半端な年頃。自分もいつかそういう世界を、普通として受け止める様になるのだろうか。 じゃなにか? 佐為の側にいる女性達はみんなそれ目当てなのか。そりゃ佐為は、スッゲーいい男だし金持ちだし優しいし、女性にしてみたら言うこと無い相手かもしれない。佐為がいつか結婚するっていうのは、解ってはいたことだけど、だけど……だけど、なんか嬉しくない。胸の中ががザワザワする。 なんで、嬉しくないなんて思うのだろ。なんで心がこんなに締め付けられるんだ。どうして俺の心はこんなに苦しい……。佐為が結婚したら俺は? 佐為のいる方に視線を向けたら、ちょうど佐為と目が合ってしまった。ヒカルは思わず目を逸らした。そのヒカルの所作に佐為は目を瞬いた。 その佐為のいるグループに、アキラが挨拶にやって来た。 「藤原さん、本日はお越し頂きありがとうございます」 「名人獲得おめでとうございます。塔矢先生もお喜びでございましょう」 「ありがとうございます。父はあの通りの人ですから、感情の起伏が測れなくて。でも母から凄く喜んでいるって聴きました。進藤も天元獲得おめでとうございます」 「ありがとう。塔矢くんもヒカルもまだまだ長い道のりが続きます。二人で切磋琢磨して上を目指して下さい」 「はい、頑張ります。あの藤原さん、父がご挨拶したいと申しております。僕と一緒に行って頂けますか?」 「塔矢先生が? 解りました。ご一緒しましょう。皆様、少々失礼致します」 アキラと一緒に向かうとすでに気づいている様で、塔矢門下の視線を痛い程浴びせられる。 「失礼します。お父さん藤原さんです」 「初めまして、藤原でございます」 初めましてと挨拶をした。だがその言葉に、皆一様に含む所がありそうな反応を示した。間違ってはいない。会うのは初めてだから。 「塔矢です。棋院のバックスポンサーに就任の件、私からもお礼申し上げる」 「いいえ、どう致しまして。少しでも囲碁普及に役立てれば幸いにございます」 「……sai」 塔矢先生が突然その名を呼んだ。思わず口に乗せてしまったという感じだ。門下の面々も、勿論佐為も驚いた。 佐為は最初の驚きからはすぐに立ち直り、少しの間逡巡したがうっすらと笑みを浮かべ、塔矢先生をまっすぐ見据え応える。 「はい、何でしょう?」 塔矢先生が呼んだのは、ネットで対峙したsaiだということは解っていた。だが、自分の名前は確かに佐為だ。言い訳をする必要も無い。 「私と対局してくれないだろうか?」 「!……。私はプロの碁打ちではありません。一介のアマチュアです。何故私に対局のお申込みをなさるのでしょうか?」 「いや、済まない。唐突過ぎたようだ。だが、年寄りたっての我儘と思い、お受け頂きたい」 「アマチュアでも、それでも、と仰せでしょうか?」 「そう、それでも……です」 アキラも緒方も芦原も固唾を飲んで見守っている。藤原佐為がどんな返答をするのかを。 父が先生が、こんな場所で言い出すとは、アキラも弟子達も思っていなかった。 暫く思案している風情だったが、意を決したように言の葉が紡がれる。 「解りました。お受け致します。但し、ギャラリーの入らない環境を希望しますので、日程と場所は私の方で整えさせて頂きます。それと、進藤ヒカルの棋聖戦第1局がドイツであります。私も其れに同行致しますので、その後で宜しいでしょうか?」 「ああ、それで構わない」 「では、決まり次第ご連絡を差し上げます。失礼致します」 去っていく藤原佐為の背を見詰め芦原がボソッと呟いた。 「僕達は邪魔なのかな? ギャラリーが居るとイヤなのか?」 「それは判らんが、何か理由があるのかもしれんな」 彼がsaiだとして、何故其れを隠すのか理解が出来ない。不可解とさえ思える。 その疑問をぶつけたら、彼は答えるだろうか? イヤ多分、その謎を明らかにする事は無いだろうと思う。 明らかにしていいのなら、なんらかの形ですでに詳らかにされているはずだ。 これは塔矢先生だけでなく、皆が一様に抱いている疑問だった。 進藤君がsaiとの対局を持ちかけて来た時も、彼は絶対に名を明かさなかったし、何処の誰とも言わなかった。 最初の頃とは反対だな。初めは向こうが必死に対局を迫って来たのに、今や私が追いかける方に回るとは。 まあいい。対局してみればあの時のsaiかどうかはっきりする。私の心を震えさせた打ち手、sai……。 この後パーティーも恙無く終了し、三々五々解散になった。 ヒカル達囲碁仲間は、ホテルを出た程近いファミレスで休息を取っていた。 「進藤、お前の天元のパーティーはいつだ?」 「えっとぉー、1月10日の火曜日だってよ。和谷って、十段戦の対局って9日じゃなかったか」 手帳を繰りながら、スケジュールの確認をしているヒカル。 「パーティーの会場はやっぱウィステリアホテルか。そうそう9日だ」 「誰と対局なんだ。うーん多分そうじゃね」 「やっぱ、後援会が藤原コンツェルンだから豪勢だろうなぁ。23日の対局の勝者とだな」 「誰と誰が対局? そっち方面は俺は解らないからノータッチ」 「何だよ全部藤原さん任せかよ。えっとよ、芹澤先生と門脇さん」 「ええい、ちょっと待てお前達! よくそれで会話が成立するな」 その十段戦の対局者の一人門脇さんが、呆れたように口を挟む。 「ヘッ、なにが?」 キョトンと門脇さんを見るヒカル。 「アハハハー、無意識でやってるみたいですよ門脇さん」 伊角さんをはじめ、みんなが愉快そうにしている。 「自分の思考に没頭しながら会話するので、そうなるんですよ。一種の変人でないと出来ませんね」 「誰が変人だっ!」 ヒカルと和谷、揃ってガバッと立ち上がり越智に指を突きつけ喚く。 「ほらぁ座りなさいよ。他のお客さんが見てるでしょ。恥ずかしいわねぇ」 二人で顔を見合わせ、揃って明後日の方向に視線を飛ばし、すごすごと座る。 「そういえばパーティーで塔矢先生と藤原さんが話してたな。進藤何か聞いてるか?」 ヒカルはフルフルと首を横に振る。 「何を話してたんだろう?」 そんなの俺が知りたい。佐為とはパーティーの間中、話なんて出来なかったんだから。パーティーでの佐為の様子を知ると、やっぱ自分とは違う世界の人間だなって思う。いつも知ってる佐為が遠く感じてしまう。 「悪いけど、俺先に帰る。じゃーな」 突然ヒカルがそう言って席を立った。あまりに唐突だったので誰も口を挟めず、ポカンとしてる間に店を出て行ってしまった。 「進藤、どうしたんだ?」 「さあ? 色々あるんじゃないか」 ○● ヒカルはブラブラと歩いていた。用事がある訳でもないので、何処に行くとかいう当てもなかった。何となく一人になりたかった。横浜にでも行こうかな……。 雪降るんかなぁ~。もの凄く寒いし見上げた空は鈍色だ。もう辺りは薄暗くなって来た。 そう言えば塔矢の誕生日は、天元の前日で移動だったから、会って無いよな。おめでとうも言って無いけど、いまさら別にいいか。 街の中はクリスマス一色に彩られている。今まで彼女とかいたことないから、クリスマスだからって何をする事も無く来た。道行く人がすれ違うカップル達が、楽しそうに幸せそうにしているのが、イヤに目につく。 今までの自分には全く無縁の世界だったもんな……ハハ。 立ち止まって又空を見上げてみる。大勢の人達が行き交う中で、一人の若者がポツンと立ち止まり空を見上げてるのは、中々に目に付きやすい光景である。 案の定「ねぇ、あれ進藤ヒカルじゃない?」 そんな声があちこちから聞こえ始め、流石に拙いと思い足早に歩き出した。 その時一台のリムジンが前方に止まり、ドアが開き佐為が降りてきた。 「ヒカル、何してるのです。早く車に乗りなさい」 「佐為……」 何故佐為がこんなタイミングよく現れたのか不思議だったけど、ファンに取り囲まれるよりはと、走って車に飛び込んだ。 「ヒカル、あんな雑踏の中で何ボーッと立ってたのですか?」 「別に……。空見てただけ、雪降るのかなぁ~と思って」 「……そうですか。他の人達と一緒じゃなかったのですか?」 「うん、途中で抜けて来た」 「ではお食事して帰りましょう。何が食べたいですか?」 ヒカルの様子を伺うと、空見てただけじゃなくて、他にも何か理由があるとみえたが、今は聞かないでおきましょうか。 「……なんでもいい……」 これまた大食漢のヒカルらしからぬ言葉が飛び出す。 「そう。では仁科さん、横浜の中華街に行って下さい。私達を下ろしたら、仁科さんはそのまま上がって下さい」 「はい、かしこまりました」 「中華街! ホントに行くの?」 先程よりはヒカルの声に張りが滲んでいる。 「そうですよ。少しは元気出ましたか」 佐為の顔を見て俯き、ウンと頷く。俺が横浜行こうと思ったのが分かったのかな? まさかな。 「ゴメン佐為」 佐為はヒカルを抱き寄せ、体を擦ってくれていた。ああ~、やっぱり佐為は佐為だ。俺の大事な佐為だ。 送ってくれた仁科さんに礼を言って、佐為と一緒に歩いて行く。時刻は6時を過ぎた辺り。 「佐為、手を繋いで回ろう」 「えっ? 手を繋ぐのですか。男同士で手を繋いでたら、変な噂が立ちますよ」 「そんなの気にしない」 「ヒカルは気にしなくても、ヒカルの立場が拙くなります」 「だからそんなのいい!」 苛立つようなヒカルの口調に、情緒不安定な様子が見て取れる。 「ヒカル……。じゃ、手を繋ぐのは時々にしましょう、ね?」 佐為の提案に、仕方ないかと譲歩する。だが結局、ヒカルは面白いものや、美味しそうな物を見つけると、一人で駆け出して行ってしまうので、四六時中手を繋いでるなんてことは無かった。 一時間程そうやって、ブラブラしていたら、佐為がそろそろお食事場所に行きましょうと言った。 「何処行くの?」 「聘珍樓に行きます」 「其処美味しい?」 「ええ、美味しいですよ」 「よし、じゃ早く行こう」 一時間ばかりあちこち歩き回ったから、お腹も空いてきた頃合い。 お店に入るとすでに予約が入れてあるので、個室に通された。そう言えば車の中で佐為が電話してたっけ。 飲み物と前菜が運ばれて来た。佐為はアルコールを飲むみたいだ。 持ってきてくれたのは、店員さんとコック長かなと思う人。料理する人が被る白い帽子だった。 「アイヤー藤原さん、久しぶりね。元気だったか。たくさん食べていくね。そっちの可愛い坊っちゃんも一杯食べるのことね。私腕振るうよ」 坊っちゃんと呼ばれた事にビックリしたが「はい、たくさん食べまーす」 元気よく返事したら「元気のいい若者、私大好きよ。じゃ失礼するね」 コックさん颯爽と出て行った。ヒカルは面白くなり、アハアハ笑っていた。 「彼は陳さんと言って、ここのオーナー兼コック長です」 「俺中国の人が本当にあんなふうに喋るの初めて聞いた。TVで見るのは誇張してるのだと思ってた」 「ふふ、陳さんはわざとああやって喋ってるのです。仕事離れたら普通の日本人と同じように話します」 「なぁーんだそうなのか。商売用か」 暫くして、美味しそうで量もたっぷりの中華が運ばれてきた。ヒカルは遠慮なく次から次へと平らげた。 佐為はヒカルの様子を嬉しそうに、だが一抹の不安を覚え眺めていた。 食事を終えてヒカルが観覧車が見たいと言うので、みなとみらいの方向にブラブラ歩いている。 「どうしますヒカル。このまま帰りますか? それともホテル取りましょうか?」 「…………帰りたくない」 「解りました。じゃホテル取りますから」 そう言って佐為は携帯を取り出して、予約の電話を入れる。こんな時間にホテル取れるんだろうかと心配したのだが、杞憂だったらしい。 「予約取れた? 何処のホテル?」 「はい、大丈夫ですよ。あそこに見える船の帆の形した建物分かりますか?」 「うん分かる。スッゲ、あんな大きなホテルよく取れたな」 「コネ使いましたから。じゃ行きましょうか」 ホテルに到着してフロントで佐為が手続きをしていると、奥のドアから一人の人物が現れ佐為に挨拶していた。どうやらこのホテルのお偉いさんだと思える。 案内された客室は、やっぱ豪勢なツインの部屋だった。部屋が2つあるからこれもスイートなんだろうか? 部屋から港が一望出来る。このホテルはアルファベットのAのスタイルで建てられている。この部屋はAの部分の頭のところに位置するので、港側とシティ側の風景が楽しめる。 「佐為、観覧車が見えるよ。綺麗だ」 「ホントですね。観覧車見えてよかったですね。ヒカル疲れたでしょ。お風呂入ってらっしゃいな」 「俺先でいいの?」 「はい、どうぞ」 じゃ、遠慮なくお先にと断って入る。ウィステリアのスイートも凄かったけど、ここも凄いな。俺って佐為に散財ばっかさせてるよな。 「佐為、お先です。早く入ってきて」 ベッドの上見ると、真新しい下着と靴下。それに明日着るシャツが置いてあった。 「これどうしたの?」 「下で買って来ました。スーツは同じでもいいですけど、下着とかシャツは同じ物着るのイヤでしょ。だから」 そうなのか。そんな事全然頭になかったよ俺。あーあ、やっぱり散財させちゃった。 「ありがとう佐為。俺全然気づいてなかった」 バスローブを着ているヒカルは、体が温まったのか冷蔵庫から飲み物を出して、一気飲みしている。 佐為がお風呂に入ってる間にナイティに着替え、リビングルームに行ってTVを付ける。 30分ぐらいで佐為がお風呂から出て、支度を整えてリビングに入って来た。 「ヒカルお茶飲みますか?」 「ううん、いらない」 自分のお茶を入れた佐為がソファーに座り、ヒカルを観察するように見ている。 「ヒカル、今日何かあったの?」 佐為をチラッと見て、すぐに視線を逸らしてしまう。 「……何も無いよ」 「嘘仰っしゃい。私に今更隠し事は無しですよ。何があったのですか」 そう問われても一体何をどう話せばいいのだ。自分だってよく解って無いのに。ヒカルはソファーの上に足を上げ膝を抱え顔を埋めている。 「もしも、俺が彼女とか作ったら、女の人と付き合ったらどうする」 「彼女……。私に断ることでは無いですよ。ヒカルがしたいようにすればいいです。好きな人でも出来たのですか?」 「ううん、そんなのいない。じゃ、佐為は俺が他の人と付き合っても平気なんだ。別に俺のことはどうでもいいってことなのか?」 この子は一体……何故急にこんな事を言っているのだろう。 「そんな事は思ってもいません。何故そんな事を言ってるのですか。ヒカル顔を上げなさい。私を見て」 佐為に言われてもヒカルは中々顔を上げれずにいた。やがて渋々と顔を上げ佐為を見たが、すぐに視線を逸らした。 「佐為、結婚するだろいつか。今日パーティーに来てた女性達って、そういう候補なんだろ? 結婚して子供出来たら家庭が大事になるじゃないか。そしたら俺は……俺はどうなるの? また一人なのか。佐為は又俺を置いて行ってしまうんだ。俺、俺は…………ゴメン。自分の気持ちを上手く言えない。なんか心の中が苦しいんだけど、なんでか解らないんだ。なんでこんな事思うのか、説明が出来ない。 韓国で社に言われた。佐為は俺のことを愛してるって。でもその時はよく理解出来なかった。佐為が結婚したら、俺はまた一人になるって事を考えてなかった。ううん違う、分かってたけど目を逸してたんだ。 ゴメン。俺もうグチャグチャで何言ってるのかわかんねぇ。もう寝る。今言ったことは忘れて」 佐為の横をすり抜けて、足早に寝室に行こうとしたヒカルの腕を、佐為が掴み自分に引き寄せた。抱きすくめられたと思ったら、アッと思う間もなく唇を塞がれた。 ヒカルは突然の出来事に、体も思考も停止ししてしまい、大きな目を閉じる事も忘れ、只されるがままに突っ立っていた。佐為の伏せられた長い睫毛が見て取れる。口づけされてた時間は、ほんの10秒程だったのだろうかと思う。後からそのぐらいだったのかなと思っただけで、ヒカルにとっては初めての出来事だけに、何の反応も出来ずにいる。 唇を離した佐為は、呆然と目を見開いているヒカルを見詰め囁いた。ヒカル……と。佐為の切なそうな表情が目に焼きつく。佐為はヒカルの頬に手を添え、更に口づけた。 先ほどより更に深い深い口づけで、ヒカルの頭の中は真っ白のままだった。それでも無意識に目を閉じ、佐為の肩口の服を、おずおずと手で握りしめている。 ああ~、頭がクラクラする、甘美な疼きが身体中を駆け巡り、下半身に血流が集まるのを感じる。体から……力が抜けていく、そう思ったら膝からガクッと崩折れた。その体を佐為はがっちり掴まえ、抱きすくめる。 「ヒカルごめんなさい、吃驚させてごめんなさい。私が愛するのはこの世で只一人、ヒカルだけです。結婚などしません。決して貴方を一人にしないと言った私の言葉を、信じなかったのですか。今夜はもう寝て。今宵の出来事は忘れて下さい」 佐為はそのままカードキィーと財布を持ち、ジャケットを羽織り部屋を出て行ってしまった。 一人取り残されたヒカルは、床にへたり込んだまま呆然としていた。初めてキスした……それも佐為と。今更ながらに思い返すと、凄く恥ずかしい。明日どんな顔すりゃいいんだ。それに俺勃っちゃったんだけど、どうすんだよ、これ。 今宵の出来事は忘れろって、忘れられる訳ねぇーじゃん佐為ぃ~。 歯磨きした後でよかった。そんな事を思った自分が可笑しくて、クツクツと笑った。 佐為が忘れろって言うなら、何か理由があるんだろう。俺不安に囚われて、思考が堂々巡りしてたんだな。 すぐにはムリかもしれないけど、佐為のこと少しずつでもいいから、ちゃんと見てちゃんと考えていこう。 ずっと側に居てくれるんだから、だから俺も信じて佐為の側に居よう。 それからも色々考えてたのだが、もう寝ようとベッドルームへ向かう。 佐為、帰って来るかな? 大丈夫だ、朝になればちゃんと隣に居てくれるはず。 先に休むな……佐為。