想恋歌
第三章 揺蕩う想いに 第三十話 2014.8.6
2005年11月15日・火曜日、16日・水曜日名人戦挑戦手合最終対局。 塔矢は大方の予想を裏切らず、見事な打ち回しで畑中名人を下し、名人タイトルホルダーとなった。 若干18歳11ヶ月、囲碁界史上初の、若きタイトル保持者となる。 棋院の関係者もこの棋戦には多く詰めかけている。勿論出版部も例外ではない。 「塔矢君おめでとう。今回はしてやられたが、来年は返り討ちにするから覚悟してくれよ」 「はい。畑中先生ありがとうございます」 それから検討が行われ、その後畑中九段と塔矢は別々にインタビューを受ける。 次から次へと目まぐるしく動き、ようやく解放されたのは午後8時過ぎだった。 ホッとしたら急に空腹を感じた。対局中の昼食は摂らないので、この時間になると流石にお腹が空いたと感じるようになる。 今夜も部屋の方に食事を頼んでおいたので、シャワーを浴びたらゆっくり摂ることにしよう。 携帯の電源を入れたら、すでに数十件のメールが入っていた。碁会所の市河さんがお客様を代表して、みんなの声を届けてくれてる。 和谷達囲碁仲間からも、お祝いメールで溢れてる。それらを見ながらニヤッとした。進藤だけメールが入っていない。多分後で電話がかかってくるなと思っていた。 進藤は長文のメールを打つのが苦手なのだ。塔矢は、面倒だからだろ? と言うと「違う!」 と全力否定するんだよな。別に否定しても肯定しても一緒なのにと、可笑しく思った事もある。 食事も終えた頃携帯が鳴り響いた。進藤かなと着信を確認したら母からだった。 「もしもしアキラさん。もう寝てたかしら?」 「いえ大丈夫ですよ」 「そう、良かったわ。名人タイトルおめでとう。頑張ったわね。お父さんもとても喜んでいらしたわよ」 「ありがとうございます。まだ実感が湧かないです」 「ふふ、そのうち嫌でも感じるようになりますよ。允許状授与式には、お父さんが出席すると思いますから、そのつもりでいてね」 「はい解りました。お母さんありがとうございます。お父さんにも宜しく伝えてください」 「ええ、解ったわ。ゆっくりおやすみなさいね」 「はい、おやすみなさい」 それから5分とおかず進藤から電話が入った。 「お前さっき誰かと電話中だった?」 開口一番それ? 進藤らしいと言えばらしいけど、ハァ…… 「してたよ。母からかかってきたからね」 「そっか。前に対局終わった時は、メシ食ってただろ? だから今日は時間空けたんだよ」 「そう。で、君は北海道にもう入ってるのか?」 「モッチ入ってるさ。スッゲー寒いんだぜ。おっと、忘れるとこだった。名人獲得おめでとうな。お前が頑張ってるから俺嬉しくてよ」 「ありがとう。君から言われると僕も嬉しいよ」 「そうだろ。タイトルホルダーでないと、倒しがいがないからな」 「…………あっそう。じゃ君も天元取れよ。それと棋聖もな。僕が倒しにいくから」 「ああ解ってるさ。返り討ちにしてやる。じゃな、ゆっくり休めよ。オヤスミー」 「おやすみ進藤」 天元戦頑張れよ進藤。君は僕の生涯のライバルなんだから。 その天元戦第2局も、ヒカルは予想を超える打ちまわしで勝利をものにした。 いくら勢いがあるって言っても、一柳先生相手に2連勝は難しいんじゃないのか。と思っている人は多かったようだ。したがってこの様な評価をされるというのも、致し方ないものではあった。ヒカルの力を正当に評価出来る者は、未だ限られていたからである。 塔矢アキラの様に、幼少期から幾多のプロ棋士に囲まれて才能を開花させた訳でも無く、突如頭角を現して来た進藤ヒカルに対しては、まだ半信半疑の見方をする者もかなりいた。と言うよりも、トントン拍子に上がっていく人物を、何処かで認めたくないと思う心理が働いているようだ。本人はそんな周りの評価や噂には、相変わらずの無頓着ぶり。 同日には、碁聖戦本戦1回戦の2局目が行われ、21日月曜日は、第53期王座戦挑戦手合2局目が行われた。挑戦者の倉田が勝利し、緒方王座・倉田九段共に一勝一敗。 片やプロ試験中の奈瀬は順調に勝ち上がり、20日の対局も勝ち、残り1局を残してプロ試験合格を決めた。 最終日の対局を仮に負けたとしても、庄司が全勝、奈瀬が13勝2敗となり、その下はすでに3敗なので合格となる。「最終対局も負けるつもりは無いけどね」 とは、合格の連絡を和谷にして来た時の、奈瀬の言葉である。 奈瀬は感極まって涙ながらに話すものだから「ちょっと落ち着け、何言ってるんだか解かんねぇよ」 和谷は何度も宥めなければならなかった程だ。 その後も、奈瀬は力になってくれた仲間達に、お礼の電話やメールを入れた。みな一様に我が事の様に喜んでくれた。囲碁仲間達や師匠の手ほどきを受け、着実に棋力を上げていった奈瀬は、女性棋士初の一般プロ試験合格者となる。 平成18年度の本院でのプロ試験合格者。岡・庄司・奈瀬。 そして24日・木曜日は天元戦第3局が大分県日田市で行われ、今回は一柳天元の勝ちとなり戦績はヒカルの二勝一敗となる。 27日の日曜日は、NHK杯2回戦33局目の対局日。NHKだから当然TV放送がある。ヒカルは最初の頃TV放送が苦手だったが、これも大分慣れてきた。相手は冴木さん。イケメン同士の対局ということで、いつになく視聴率が良かったと、NHKが話していたそうだ。結果はヒカルの一目半勝ちとなった。 和谷は十段戦本戦の最終で負け、12月15日の敗者復活戦の4回戦に回った。 こうして怒涛の11月が終了した。12月に入り、王座戦第3局目は倉田が勝利し二勝一敗とし、翌週の第4局は緒方が勝ち、それぞれ二勝二敗。ヒカルは31期碁聖戦・本戦の一回戦を難なく勝ち上がった。 そんな12月の頭に久しぶりに佐為のマンションにやって来たヒカル。11月は対局が立て込んで、思うように佐為にも会えなかった。 「11月は忙しかったなぁ……」 「挑戦手合が3回ありましたからね」 昨日は自分の対局があった為、緒方さんと倉田さんの対局が見られなかったので、今日は佐為と検討中。 「緒方先生最近調子悪そうでない?」 「そうですね。内容を観る限りでは然程でも無いようですけど、踏み込みに躊躇する部分が見受けられますね」 「そういえば棋院からドイツ行きのスケジュール貰った。15日の対局なのに12日に出発するんだって。えらく早くないか?」 「フライト時間に12時間かかるんですから、休養が必要でしょ?」 「12時間!! 12時間も飛行機に乗るの?」 「そうですよ」 「ウゲェー」 心底嫌そうな顔をしている。 「そういえば、ホテルの部屋とか飛行機の席は、藤原さんに確認の事って書いてあったぞ」 「そうです。ヒカルの分はすべてこちらで手配してます。ホテルの部屋は私と一緒ですけどいいですか?」 「佐為と?」 「ええ。嫌ですか?」 「ううん、一緒でいい。てか、海外のホテル泊まるの初めてだから、一緒でないと困る。俺喋れねぇし」 佐為はニヤニヤしながら「私が居なくても、棋院がしてくれるから心配ないですよ」 そう言ったら、間髪入れず「佐為でなきゃヤだ」 と答えが返ってきた。 「フフ、解りました」 ヒカルの瞳が喜色に染まっている。 「藤原コンツェルンは、プライベートジェットとかって無いの? お金持ちってみんな持ってるじゃんか」 「ありますよ。でも今回は棋院の皆様と一緒ですから、なるべくそちらに合わせます」 「じゃ、いつか其れに乗せてくれる?」 「ええ、いいですよ」 「ヤッター!」 次の第4局の天元戦まで三週間という時間が空いていた。ヒカルはその間に道玄坂の碁会所、実家と祖父・祖母の家などに行って来たらしい。本当は佐為と一緒に碁会所に行きたかったのだが、そうすると佐為の事を何と説明すればいいのか困ると思ったので、一人で行ったと話していた。 あかりちゃんの大学の囲碁部にも、和谷君・塔矢君と一緒に行ったそうだ。タイトルホルダーとなった塔矢に天元挑戦中のヒカル、その後衛に廻ってはいるが和谷という豪華メンバーで、囲碁部は活気づいていたらしい。 「ヒカル」「あかり」 と呼び合う二人に、不穏なる空気を醸し出している男子部員が一人居たらしいけれど。 どうやらあかりちゃんに惚れてる様だと、塔矢と和谷が話している。 ヒカルは全く気づかなかった。が、不機嫌そうな和谷には気づいていた。 「なぁ~んだ、和谷が不機嫌だったのってそのせい?」 「俺? 不機嫌だったか? そのせいってどういう意味だ」 ヒカルは明らかに”しまった” という顔をした。『俺、またいらん事言っちゃったよ』 「い、いや別に特に意味は無いけど……」 ゴニョゴニョと口を濁らせ”オイ助けろ” ビームを送りながら、塔矢をチラチラと窺い見る。 「あかりちゃんはとても魅力的だから、男子達にもてるだろうね。大学卒業したら進路はどうするんだろう。進藤は聞いてる?」 「いや、知らねぇ。どうすんのかなぁ? 大体学部も知らねぇし」 「国際コミュニケーション学科だとよ」 「和谷、あかりちゃんに訊いたのか?」 「うん、北斗杯の時に送って行ったろ。そん時訊いた」 「それ、何をするところだ?」 「俺に聞かれても分からん」 「国際コミュニケーションってことは、英語は必須だよ。分野は多岐に渡るからな。和谷、進路の事は訊かなかったの?」 「訊いてない」 そんな話をしていたら最寄り駅に着き、和谷とは其処で別れた。 「進藤、さっきのあれは何だ?」 和谷と別れたら塔矢が早速ヒカルに尋ねる。塔矢の顔をジーッと見ていたら「オイ!」 と突っ込まれた。 「誰にも言うなよ。第1局目の天元戦の明くる日によ、昼前に東京駅に着いたんだ。そん時に喫茶店で楽しそう~に話している、和谷とあかりを見たんだよ。韓国の土産の袋がテーブルの上にあった」 「へぇー、そんな事が。成る程それであの発言か。付き合ってるのか二人は」 「いやー判らねぇ。でもお似合いだなとは、その時思った」 「そうか。上手くいくといいね」 「そうだな」 そのまま市ヶ谷まで来て、塔矢とは左右に別れた。 そんな話を先程ヒカルから聞かされていた。 「国際コミュニケーション学科ですか。ひょっとして客室乗務員になりたいのじゃないですか?」 「あかり? 客室乗務員ってスチュワーデスの事?」 「そうです」 「へえ~~、スチュワーデス。あかりからそんな話聞いたこと無いな」 「そりゃ、ヒカルがあかりちゃんとまともに話したのは中学までですもの。知らなくて当たり前です」 「それもそうか。スチュワーデスかぁ……。みんな其々進んで行くんだな」 「ええ、ヒカルも私もね。あっそうそう、ベルリンでの対局が終わったら、ヒカルと私は棋院の皆様とは別行動です。ドイツ観光してから帰りますからね」 「ハイ? それいつ決めたの。俺のスケジュールは?」 「スケジュールは、大丈夫です」 なんか又無理やり、スケジュール調整させたんじゃないだろうな。 「佐為、無理やり調整させるの不味いんじゃないの? 他の棋士の人達から文句出ないか?」 「今回はヒカルのスケジュール一週間空いてたんです。私もそんな事何度もしませんって。後一回ぐらいしか」 後、一回はするんかい! 佐為と再会してからのヒカルは、日々の営みにも落ち着きが出て来て、精神的にも少しずつ大人への階段を上っている。会話ひとつとっても、子供の頃は生意気で乱暴な口の聞き方をしていたが、TPOにおいてきちんと使い分けを心掛ける様になった。 佐為への想いも子供の頃とは違う感情が、確かに存在してるのは自分でも認識出来るのだが、では其れが何なのかと問われても、明確に説明することが出来ない。敢えてその現象に対し、直視しないようにしている自分がいるのも、気づけていない。 韓国で社に言われた言葉も、胸の中にずっと居座っている。 ヒカルはまだ本当の意味での恋を知らない。奥手故かもしくは縁がなかったのか、はたまた興味が湧かなかったのか、女性に恋心を抱くとか、いいなぁと思うことも無く過ごして来た。 恋心を抱くという気持ちは、ヒカルの中では異性に対してという認識がある為、社に言われた時もきちんとした答えは返せなかった。 そんな想いを抱えたままのヒカルは、数日後の12月15日(木)、兵庫県神戸市での、天元戦挑戦手合第4局に臨んだ。今日勝てばヒカルの天元奪取が決まる。同日、十段戦敗者復活4回戦の第1局もあり、こちらは和谷が対局に臨んでいる。 今日の対局で決めてやるという決意はあるが、気負いはこれポッチも無かった。むしろ平静な心のままで対局に臨む事が出来ている。佐為に何度となく指導してもらったお陰だと思う。 中盤までは粗互角で進んでいた。どっちに転んでもおかしくない展開のままだったが、勝負はあっけないところで決まった。今回は黒番が一柳先生、中盤から徐々に優位に事を運んでいたが、ヒカルがつなぎなのか? と思われるキリを打った。 塔矢家の実家では、アキラや門下の人達が対局を検討しながら観戦していた。 キリを打った時に芦原が「これどう見ても時間つなぎですよね」 「うーん、そう見えるな」 「いや、待ちなさい。これは時間つなぎのキリじゃない」 久しぶりに日本に戻って来ている塔矢行洋が静止する。その言葉の通りに一柳天元が白石4子を取ったが、その後にヒカルはまたキリを入れた。いわゆる跡切りだ。そして黒の2子をまた取り返すという、「石の下」 が完成。この一連の流れで、ヒカルは隅の1眼と2子の1眼で、白石を生き返らせた。 「うわぁ~、石の下なんて実戦で初めて見た。緒方さん見たことありますか?」 「いや、俺も実戦ではお目に懸かったことは無いな。塔矢先生はどうですか」 「私は一回だけ見たことあるな」 「石の下」 は典型的な手筋としてよくある形である。初心者にもこの手筋は一応教えるぐらいだ。だが、実戦で発生することは大変稀だと言われている。 ここから形勢が一気にヒカルに傾き、白の2目半勝ちとなり、進藤ヒカル天元奪取の快挙を成し遂げた。 「イヤー、進藤君にしてやられたなぁー。いやいやいや、参ったねこりゃ。進藤君おめでとう」 「ありがとうございます、一柳先生。先生と対局出来て凄く楽しかったです」 「そうか。ではまた来年挑戦手合で戦うとするか」 「はい!」 此処に塔矢アキラに続き、19歳3ヶ月でタイトル獲得、進藤ヒカル天元の誕生となった。 検討と取材を終え部屋に戻ったヒカルは、携帯を確認した。 かなりの数のメールが入っていたが、一番に開いたのは佐為のメールだった。ニコニコしながら開いたメールには、【ヒカル、天元タイトル獲得おめでとう。とても素晴らしい対局でした。貴方を誇りに思いますよ。今夜はゆっくりと休みなさいね】 とあった。 「へへへへへ~~~。電話しようっと」 それから佐為と30分も電話で話していたので、後から塔矢や和谷、伊角さんに散々文句を言われた。 「ちーっとも繋がらねぇじゃねえか、進藤~!!」