想恋歌
第二章 燦めく才能 第十九話 2014.4.7
ここは横浜市中区。元町の繁華街からほんの少し離れたお洒落なカフェレストラン。女性に人気があると雑誌で紹介されたこともあり、店内はほぼ満席に近い。カップルで幸せそうに語り合う二人、仲の良い友達同士で楽しんでいるグループ。 そんな中、藤崎あかりは一人ポツンと窓辺の席に座り、外の風景を眺めていた。実際には眺めるというより、只目線が外に向いているというだけで、その瞳には何も映してはいなかった。 だから其処に見知った人物が通り掛かっても、あかりはまったく気づけずにいた。 和谷は指導碁で、横浜市内に住む会社社長の家から帰る途中だった。ここの社長は囲碁愛好家で、アマにしてはそこそこの棋力があり、和谷を贔屓にしてる人であった。東京までタクシーを呼ぶから乗って行ってくれと言うのを、久し振りに横浜の街を歩いて見たいからと断って出てきた。 9月の中秋の名月は18日だったので、お月様はまだ満月に近い状態だ。 和谷は中秋の名月は、毎年同じ日なのだと思っていたら、どうやら毎年違うという事を、先程の指導碁先の社長が教えてくれ初めて知った。 「今度の天元戦の最終対局は進藤七段なんですな。確か23日でしたか?」 そんな話題が出たので「そうです。中秋の名月の日ですね」 そう応えたら相手はポカンとしたと思いきや、高らかに爆笑した。 「和谷先生、今年の中秋の名月は18日でしたぞ。23日はお彼岸とは言いますが、中秋の名月ではありませんよ」 そう教えてくれたので「毎年変わるんですか?」と訊けば、「毎年変わりますよ。月も太陽も地球も休み無く動いておりますからな」 「すいません、知らなくて。毎年一緒なんだと思ってました」 恥ずかしさに顔を赤くして、頭を掻く。 「いやいや、結構結構。若いんですから間違っても何ら恥ずかしいことじゃありませんぞ。これから幾らでも知識を増やしていけばいいことですわ。それよりも23日は頑張ってくだされよ。応援しとりますからな」 「はい、全力を尽くします」 そんな出来事を思い出し、笑いを噛み殺しながらブラブラ歩いていたら、少し繁華界から外れた様だ。もうちょっと先まで行ったら戻ろうかと思い、通りがかった店の中に何気なく目を向けたら、藤崎あかりが一人窓側の席にポツンと座り外を眺めているのに気づいた。 あっ、あかりちゃんがいる。一歩踏みだした足が止まった。あかりの顔から一切の表情が抜け落ち、まるで彫像のような雰囲気を漂わせている。嬉しいとか楽しい・幸せ、悲しいとか辛い・痛い、そんな事を何も感じさせない無の表情が其処にあった。 和谷は逡巡した。いつも明るくにこやかにしているあかりは其処には居なかった。声を掛けるべきでは無いだろうか……何かあったのだろうか? 進藤かな? しかし時間も大分遅い。やっぱり放っとけなくて、和谷は店の中に入っていった。 テーブルの側に立ち「あかりちゃん」 呼んでみるが反応が無い。 今度は少し大きな声で「あかりちゃん、何してるの?」と呼びかける。 あかりはやっと気づいたようで、視線を巡らせ和谷を認めた。 「和谷君……」 「一人でどうしたの? 何かあったの?」 あかりの目から涙が一筋流れ落ちた。無表情の顔から流れ落ちる涙が、より深刻さを伺わせる。 「ちょっ、あかりちゃん、どうしたの?」 和谷は慌てふためいた。 「アハハ、ごめんなさい、何でも無いの。和谷君の顔見たら急に……ごめんなさい。何でも無いの」 首をフルフルと振りながら俯いてしまった。 やっぱり何かあったんだなと思った和谷は、ここから連れだした方がいいなと考え 「あかりちゃん、この後用事が無いなら俺と一緒に帰ろう。送って行くよ。すぐ帰りたくないなら、あかりちゃんの好きな所へ行こう」 ネ、そうしようと言うと、あかりは頷き立ち上がった。 和谷は伝票を手に取ると、レジに精算に向かう。 「和谷君ごめんなさい。私が払います」 「いいよ。俺今日臨時収入が入ったから大丈夫」 ウインクして見せる。普段こんなアクションは取らない和谷だが、何とかあかりの気持を引き上げようと必死だった。 「和谷君ゴメンね。ありがとう」 「いいよ、気にしないで。それにそんな風に謝らなくていいよ、悪いことした訳じゃないんだから、ね。で、どうする? このまま帰る?」 「……和谷君がいいなら、山下公園に行って海が見たいの」 「いいよ。じゃ行こうか」 ふたり無言でブラブラ歩いて行く。和谷は何か話さなきゃと思うのだが、あかりの様子を観て別にいいかと思い直す。 ゆっくり歩いて15分程で山下公園に到着した。今夜は風も無く海は穏やかに凪いでいる。 あかりはフェンスに手をつき海を眺めている。 「静かね」 「そうだね。風も無いしよく晴れててお月様も綺麗だ」 「ウフッ、和谷君でもそんな事言うのね。詩人みたい」 「あかりちゃん、和谷君でもは酷いなぁ~」 「あっ、そんな意味では……ごめんなさい。今日は横浜でお仕事だったの?」 「そう、この近くの会社社長の家に指導碁に行って来た所」 「そういうお仕事多いの?」 「うん、結構あるよ。まだ段位低いから色んなイベントやら指導碁受けて稼がないとね」 「そう、ヒカルもそうなの?」 「そうだね。進藤とか塔矢は人気者だから、違う意味で忙しいかな。まぁあいつらも稼がなきゃいけないのは一緒だし……。あかりちゃん何かあったんだろ? 進藤のことか?」 「和谷君結構鋭いから、すぐ解っちゃうのね」 いや、鋭く無くてもその様子見りゃ誰でも解るって。 「今日はね失恋日なの。だから自分で自分を慰めてたの」 「進藤が何か酷いことでも言ったの?」 ヒカルが聞いたら目を剥いて怒りそうな事を言った。 「ううん、ヒカルは酷いことなんて言わないわ。それよりも謝ってくれたの。だから、ヒカルに失恋した記念日なの今日は。和谷君も解ってると思うけど、私はずっとヒカルが好きだった。でもヒカルは、私より大事なものがたくさんあって、私は唯の幼馴染でしかありえなかった。それはずっと解っていたけど、私は自分の気持に踏んぎりがつけれなくて、ズルズルと気持を引き摺って来てしまった。でも、今日ヒカルから電話貰ってわかったの。もうこんな気持のままの自分でいてはいけないんだって。ちゃんと前を向いて、自分の人生を生きなきゃ駄目だって。ヒカルは自分の人生を一生懸命に生きてる。私も恥ずかしくないように、ヒカルの前に堂々と、笑って会いに行ける様にしなきゃって、そう思ったの」 「そっか。俺上手く言えないけど、あかりちゃんなら絶対乗り越えて行けると信じてるよ。何か困ったことがあれば相談に乗るよ。まぁ俺じゃ頼りないとは思うけど」 「ありがとう和谷君。そしたらたまにお茶とか付き合ってくれる?」 「ああ、そんなことならお安い御用だよ。いつでもどんと来いだよ」 「アハハ~ありがとう」 「そうそう、その笑顔だよ。あかりちゃんは笑顔が一番似合ってるよ」 あかりはハッとしたが、嬉しそうに笑い返してくれた。後でこの時のクサイ台詞を思い出し、一人で赤面した和谷だった。 だがこの時のクサイ台詞が、あかりの進む道を決定付ける事になろうとは、世の中分からないものだと、後年和谷は思った。 「あかりちゃんそろそろ帰ろう。遅くなるとお家の人が心配するよ」 「ええ、そうね」 横浜の夜の街を、友達以上? 恋人未満のふたりが消えて行く。其々の明日を目指して…… こちらは、食事を楽しんで帰り支度をする佐為とヒカル。計ったように塔矢門下の面々も帰途に着くところだった。 ヒカルは『なんか見張ってたんじゃないだろうな』 塔矢が聞いたら、君は失礼千万だなと言いそうな不埒な事を思った。 「進藤、明後日は最終対局だろ? 気を抜くなよ」 そう言いながら、塔矢は進藤の服をジロジロと眺めている。 「オゥ、分かってる。全力を尽くすさ。お前こそ名人戦の挑戦手合三局目があるんだろ? 気ぃ抜くなよ」 塔矢は現名人畑中九段との挑戦手合中だ。二局終了し其々一勝一敗の成績。 「全力を尽くすよ。ところで進藤、いいTシャツ着てるね。それ綿100双か120双あるよね」 「ヘッ? 100双? そ、そうなの?」 ん・なこと言われても、ヒカルには何のことだかさっぱり解らない。高かったので良い物だとという事はわかる。佐為の顔を伺うと、佐為は可笑しそうに、だが静かに笑っていた。 塔矢って坊っちゃん育ちだから、結構いい物はすぐに解るんだな、ということはヒカルにも分かった。 帰りの車中で、すぐ佐為に確認をしてみる。 「佐為、さっき塔矢が言ってた綿100双って何?」 「簡単に言うと綿糸の質です。綿糸も100とか120の番手になると、ビロードとか絹のような光沢が出るのです。双というのは綿糸を2本撚り合わせて織るので、丈夫で艶のある生地に仕上がるのです」 「へぇー知らんかった。だから値段も高くなるってことなのかぁ。佐為といると色々教えて貰えて、俺助かる。塔矢ってやっぱ坊っちゃん育ちだけの事はあるな」 「そのようですね。私の知ってる知識なら、幾らでも教えますよ。碁打ちとしてもですが、人として最低限の知識は覚えておいても損はしません」 「チェッ、学校の先生みたいだ。はいはい頑張って覚えます」 「”はい” は一回です」 ブーっと膨れっ面になるヒカル。 「佐為、今夜は佐為の家に泊まってもいいの? 俺もっと佐為と打ちたいんだけど」 「勿論構いませんとも。明日はゆっくりしてから家に帰ればいいでしょ? ヒカルの家も見たいから送って行きます」 「俺の家なんて佐為の家と比べたらちっちゃいぞ。見ても面白くないと思うけど」 「ヒカル、大きさは問題ではありません。ヒカルが住んでる所だから私は見たいのです」 「あ、そうなんですか。では好きなだけどうぞ」 ふたりで顔を見合わせて、笑いあった。 その夜は遅くまでふたりで打っていた。ヒカルの弱点は、真っ向勝負の力技で挑んで来られると、厚みが薄くなってしまうところにある。佐為は緩急自在の打ち分けが出来るので、ヒカルの弱点に合わせて打っていく。 深夜もかなり遅くなり、ヒカルが眠気に負け終了となった。半分眠りこけているヒカルを、またもや佐為が抱き上げ寝室に連れて行く。ベッドに寝かせた時にはすでに夢の中。 「ヒカル服を着替えましょ」 声を掛けても全く反応なし。仕方がないので佐為が着替えさせる。Tシャツはそのままでいいが、パンツはいくらなんでも寝にくいだろうと、思い切って脱がせるが、視線のやり場に困って顔が少々赤くなる。 「イヤですね、私ったら」 子供の頃から見慣れてるのだが、今のヒカルはもう子供じゃない。邪念を振り払う様に、頭を2・3回振る。何とか着替えさせて、佐為もシャワーを浴びて自分の寝室で眠りにつく。 明くる朝、9時半頃にヒカルは目を覚ました。目覚めて佐為の寝室のドアをノックするが返事がない。 「佐為、開けるよ」 ドアを開けたが、ベッドは綺麗に整えられて佐為は居なかった。佐為何処ぉ~? と呼びながらリビングに行っても居なかった。ぐるりと視線を巡らせると、テーブルの上に書き置きが置いてある。其処には(少し仕事に行ってきます。12時頃には戻ります。朝食は作ってありますので、パンをレンジで温めて食べてください)そう書いてあった。 「なんだ、仕事に行ったのか……。そうだよな俺に付きっきりだったもんな。仕事が溜まってるのかも」 キッチンに行くと、フランスパンを横に半分に切った上に、具材が乗っている。カリカリベーコンとゆで卵が荒くほぐしてあり、上にマヨネーズがかかっているパンと、もう一つは、ツナと炒めたしめじにチーズが絡ませてあるものがあった。 「これってオープンサンドかな?」 初めて目にするものだ。他にサラダ、ヨーグルトにコーンスープがあった。コーヒーはドリップされていた。 とりあえず、このパンをレンジで温めればいいんだなと、レンジに入れる。 出来上がったオープンサンドを頬張って、「美味い!! これ美味しいなぁ」 後で佐為に作り方教えて貰おぅっと。綺麗に全部平らげて、ごちそうさまでしたと手を合わせる。食器も綺麗に洗い、自分もシャワーを浴びて佐為が追加で買ってくれた洋服に着替える。 時間を確認すると後30分程で12時になる。天気いいからテラスに出て待っていようっと椅子に座っていると、ウツラウツラとしてしまった。最近運動不足かもしれないと思い、テラスでストレッチを始めるヒカル。 「ヒカル帰りましたよ」 佐為は声をかけながら入ったのだが、応答が無いのを怪訝に思いつつリビングを覗いたら、テラスでストレッチをしているヒカルを見つけた。 「ヒカルったら、ふふふっ」 佐為は暫くストレッチするヒカルを眺めていた。ストレッチに専念していたヒカルは、ふと人の気配を感じ部屋に目を向けたら、佐為が窓辺に立っていた。 ヒカルの顔がパッ! と明るくなる。 「お帰り佐為。いつ帰って来たの?」 「少し前ですよ。ヒカルが熱心にストレッチしてるから眺めてたんです」 「なんだ、そうなの? 声掛けてくれればいいのに。仕事大丈夫だった?」 「はい、大丈夫ですよ。ヒカル準備出来てるなら出掛けましょうか?」 「うん!」 エントランスを出ると昨日乗ってきた車とは、違う車が待っていた。TO○○TAとロゴがあるから国産車だ。最高級のクラウンかな? でも運転者の仁科さんは一緒だった。 「仁科さん、こんにちわ。またお願いします」 「はい、お待ちしておりました。どうぞ」 ドアを開けてくれる仁科さんに、ありがとうとお礼を言いヒカルは車に乗る。 ヒカルが誰にでも別け隔てなく、にこやかに接する姿勢が好きだった。相手によって態度を変える性質であれば、まず好きにはならなかっただろう。 車中では早速ヒカルの質問攻撃が始まった。 「佐為、今朝のオープンサンドって言うんだろ? あれの作り方教えて」 「ああ、《タルティーヌ》ですか? 作り方と言う程難しくはないですよ」 「タルティーヌって言うの? 初めて聞いたよ」 「フランス式のオープンサンドイッチですね。上に乗せるものは何でもいいんですよ。味付けさえちゃんとしてれば、何を乗せても美味しいです。今朝のはどうでしたか?」 「うん、最高! めちゃ旨かった」 「それはよかったです。後でレシピ届けますから」 「では、初めに調理器具のお店に寄ってからお昼を食べて、ヒカルの家に送って行きます」 「おっ、ジュース作る器械? やったー!」 到着した所は問屋街のようだった。色々なお店が軒を連ねている。佐為が昵懇にしてる店というか、仕事上で関わりある店だと教えてくれた。 店の主人も囲碁を嗜む人のようで、俺の事もちゃんと知っていて明日の最終対局も期待しているから頑張ってくれと言われた。今度指導碁を頼んでも良いでしょうか? と聞かれたので、スケジュール空いてれば全然OKです。と返事をしたら、とても嬉しそうにしていた。 店の主人がお薦めのジューサーを見せてくれた。ホテルで見たのとは色合いが全然違った。あっちはいかにも厨房機器という感じだったが、お薦めのはカラフルなオレンジ色をしていて、一般家庭に置いても似合いそう。 「こちらは最新のものでして、お値段はちょっと張りますが、流石に使い勝手が良くて評判が宜しいですよ。大きな果実も絞れます」 値段を聞いたら「49,000円でございますが、七掛けで34,300円にさせて頂きます」 ヒカルは3万円ほどしか持ち合わせが無かったので、カードで買おうとしたのだが、私が払いますからと佐為が支払ってくれた。 「じゃ、後で返すな」 佐為はにっこり笑い「いいえ必要ありませんよ。私からのプレゼントです」 と言った。 「でも、でも、でも、洋服も一杯買って貰ったのに、これ以上佐為に負担かける訳には……」 プレゼントして貰えるのは凄く嬉しい。本当に嬉しい。ファンの人から貰うプレゼントも嬉しいが、佐為なら尚更に嬉しいのだ。だが本当に甘えてばっかりでいいのだろうか? 佐為は裕福だから、このぐらいの事で困ることは無いとは思うが、思うのだが…… ヒカルが困ったような顔をしている。ヒカルはまだお子ちゃまの部分も多いですが、人の気持に思いを馳せる事もちゃんと出来る様になっている。佐為は嬉しかった。 「ヒカル理由はいずれ話しますが、一昨日話したでしょ。私は貴方の為に存在するのですと。覚えてますか?」 「うん、覚えてるけど、それが何か関係あることなの?」 「ですからそれはいずれお話しします。今はその事だけを覚えておいてください。解りました?」 そう言われたヒカルは、佐為の顔を何とも形容し難い表情を浮かべ眺めていた。 だが一応「うん、わかった」 と頷いた。本当は全然解ってないのだが…… 佐為は微笑んで、ヒカルの背中をポンポンと優しく叩いたら、ヒカルは佐為を仰ぎ見て笑顔を見せてくれた。