想恋歌
第二章 燦めく才能 第十八話 2014.3.21
二時間が過ぎ、もうすでに三時間になろうとしている。 20分近く考え込んでいたヒカルだったが、とうとうアゲハマを盤上にばら撒く。 「ありません」 「ありがとうございました。さて、どうでしたか?」 「あ~あ、勝つ気満々でいたのに、全然ダメじゃん俺。佐為、なんか更に強くなってね?」 「フフそうですネ。敗因になった自分の手は、何処だか分かりますか?」 「此処の181手目じゃないか? 此処に打つんじゃなくて、こっちを押さえたほうがよかったのかな」 「そうですね、そっちに打っても良いのですが、では私がこう出たらどうします?」 「あっ! そうか駄目じゃん。そしたら、ここの地が死ぬな」 「181手目は、此処に打ち込むのが最善です」 佐為が打ち込んだ地合いを検分して「ああ! そうかぁ~。もうダメダメだぁ。こんなんで最終対局大丈夫かな」 頭が段々と下がっていく。 「大丈夫ですよ、今のヒカルなら勝てます。私が教えていた時とは比ぶべくもなく、本当に強くなりました。でも貴方は更に強くなれます。この私が、ヒカルの力を引き出します。自信をお持ちなさい」 貴方のその ≪ 燦めく才能 ≫ を、私が必ず遥かな高みまで引き上げて見せます。 「ちょっと休憩にしましょうか。疲れたでしょヒカル」 「うん、そうだな。あのさ、俺と佐為の事をみんなにどうやって説明したらいいの? 一緒に居ればいずれバレルだろ。塔矢と和谷はずっと疑ってるみたいだし、あと、師匠の事はどうする? 今までどおり俺には師匠無しにするの?」 「貴方はどうしたいのですか。師匠はこの人ですと紹介したいのですか?」 「うん、俺紹介したいんだよ。俺の師匠は佐為なんだぞ、なーんて。駄目……かな?」 かな、の所で佐為の顔をチラッと見る。 「そうすると、色々やっかいな事を聞かれまくりますよ。あまり得策とは思えませんけど」 「じゃあじゃあ、師匠のことだけ話して、後はノーコメントってのはどう?」 「ヒカルは……大胆っていうのか、考え無しっていうのか」 「なんだよぉ」 「確かに私が棋院に関わった時点で、相当あらぬ風潮が飛び交ってるようですけどね」 「ゲッ、そうなの? じゃやっぱり師匠だけって言うのをバラして、後はノーコメントにしようよ。ねえねえそうしよう」 そう言いながら、ヒカルはソファーに座ってる佐為の首に、後ろから絡んでいる。佐為はそのヒカルを掴まえるとクルッとソファの方に反転させた。 「ウワァッ!! び、ビックリしたぁ」 ちょうど佐為の膝枕にヒカルの頭が載っている。 佐為はニヤリと笑みを作ると、ヒカルに顔を近づけて行く。 「さ、佐為、な、な、なに……」 心臓がバクバクして、口がカラカラになってきた。 佐為の顔が10cmの近さまで来た時「ヒカルはそうしたいの?」 と訊かれた。 「うん、佐為顔が近すぎなんだけど……」 丸い目を更に大きく見開いて、棒読み状態の台詞を言う。 「近すぎなんだけど何です?」 「あの、恥ずかしいから」 なんて綺麗なんだろ佐為。蒼く深みがかった瞳、吸い込まれそうな……。 「私は恥ずかしく無いですけど。ずっとこうしていたい所ですが、仕方ないですね」 そう言いながら、ヒカルの額にキスを落として解放する。 こいつ、性格悪くなったんじゃないだろうか。うん、ゼッテェー悪くなってる。 「ん、じゃあどうするのぉー」 「”ネットのsai” であることは口外しません。楊と黄にも違うと言ってあります。師匠の件は、暫く考えさせて下さい。いいですねヒカル」 「うん、わかった……」 なんか腑に落ちないのだけど、佐為にきっぱり言われると敢えて反論が出来ない。 俺の師匠って知られるのイヤなんだろうか? 何故イヤなのかが解らないヒカル。 この時点では、佐為とヒカルの想いに大きく隔たりがある為、ヒカルには佐為の気持ちや思惑を、汲み取る事が出来なかった。お互いが好きという想い、大切な失いたくない存在、同じ気持が双方にはあるが、佐為にはヒカルに無い激しい感情が渦巻いている。 進藤ヒカルを欲して止まない、業の深さ荒々しさが。自分でも制御するのに多大な痛苦を強いられる。 佐為は自分が転生した身である為、仏教の【輪廻転生】 は存在すると信じている。であるなら、当然【三業 】 も【三時業 】 もあるはず。 自分がこの想いを貫き通せば【三時業】 の業も、ヒカルに負わせることになる。 人とは、なんと浅ましく罪深き生き物でありましょうや。私はそれでも諦めきれない……。 「佐為ぃー、どうかした?」 突然考えこんでしまった佐為を怪訝に思い、ヒカルが心配そうな声を上げる。 「いえ、なんでもありませんよ。検討の続きをしましょうか」 いけない私としたことが。自分の思考に沈んでしまい、ヒカルに心配をかけてしまっては。 「うん!」 検討を重ねながら、自分の弱点を自分で見つけ出させる。ヒカルが以前負けた対局の検討もしっかりとした。囲碁をしている時のヒカルは、非常に真面目で真剣に取り組む生徒だ。自分に一切の妥協を許さない厳しい面を持つ。これもひとえに佐為の教えから受けついでいる。そうして時間もかなり過ぎた頃「グウゥゥ~~」 ヒカルのお腹が盛大に鳴った。 「アハハハ~、ヒカルお腹が空いたのですね。もうこんな時間になりましたか。いささか夢中になってしまったようですね。では、支度して出かけましょうか」 「なになに? 何処へ食べに行くの?」 「今夜は料亭に連れて行ってあげます。私が馴染みにしてるところがありますので」 そう言って佐為は電話を掛けていた。 「料亭! スゲェ~」 トイレを済ませて戻りつつ、服装ってこれでいいのか疑問に思ったので、電話を終わった佐為に訊いたら、私と貴方だけなので、それで構いませんと返事された。 「要するにT・P・Oって事?」 「そういう事です。さっ行きましょ」 マンションのエントランスから出ると、朝乗ってきた車が待っていた。 「佐為が事故に遭った時に乗ってた車もこれ?」 「あれは流石にオシャカになりましたよ。そうそう事故の時も、今運転してくれてる仁科さんだったんですよ。彼が私を助けてくれたんです」 「へぇーそうだっの? 仁科さん、佐為を助けてくれてありがとう」 突然言われた運転手の仁科さん、吃驚したがすぐ笑顔になり「いいえ、当たり前の事をしただけでございます」 「でも、仁科さんが助けてくれなかったら危なかったんだろ? じゃ、やっぱ命の恩人だよ。なっ佐為!」 「ええ、その通りですね」 「いえ、恐縮でございます」 仁科さんは、優しそうに微笑んでいた。 「料亭って言えば、以前緒方先生に連れられて行ったことあるな。あれって何処の料亭だっけ?」 「貴方一人でですか?」 「ううん、塔矢も一緒だったよ。まさか同じ料亭で鉢合わせなんてしたら、シャレに無んないよな」 「アハハ、そんな偶然はそうそう起こりませんよ」 「だな」 全くの冗談だったのに、本当に鉢合わせすることになるとは。 料亭の前に到着した時に、ちょうどお店に入って行く人達がいた。佐為は後部座席の助手席の後だったので、運転手がそちらのドアを開け、最初に降り立った。そしてヒカルが降りてくるのを待つ。 その場面を最後に店の中に入って行く、塔矢門下の芦原が気配に気づき振り向いて確認した。が、芦原は藤原佐為を知らなかったので、髪の長い男性を認めただけだった。 そして店の中では、来店したお客様の確認中だったところに、ふたりが入店した。 入店してきたお客を何気なく見た塔矢は、驚いて叫んだ。「藤原さん!」 その声に佐為の後ろから、ヒョコっとヒカルの顔が覗いた。 「塔矢! 緒方先生に芦原さん……」 「進藤……」 「おやまぁ、会っちゃいましたね」 佐為! なんて暢気な! 全然慌てる様子も無い佐為に突っ込みたいのだが、それよりも目の前の三人が気になる。 「アキラ君、こちらは?」 緒方が尋ねる。知ってるくせにわざと訊くんだから、本当に緒方さん質が悪いったら。塔矢は細やかながらお返しをしてあげた。 「藤原コンツェルンの藤原佐為さんです。隣に居るのはプロ囲碁棋士の、進藤ヒカル七段です」 緒方が、“コイツは~” って顔で塔矢を睨む。その塔矢は明後日の方向を見て、舌を出していた。ヒカルは目をまん丸にして、唖然と塔矢を見ていた。『塔矢ってこういう奴だっけ?』 「ああ、あんたが棋院のバックスポンサーになった藤原さんか。宜しく頼む」 「こちらこそお願いします。緒方十段、芦原さん、塔矢君久しぶりですね」 「お久しぶりです」 「塔矢、昨日は悪かったな。あかりの事もゴメンな」 「いや、別にいいよ」 そう言いながら塔矢は進藤を見ている。 ヒカルは三人から向けられる視線に耐え切れず、佐為の袖を引っ張って(早く行こうよ) の合図を送る。が、 「藤原さんは、進藤とはどういう関係なんだ」 今までアキラも聞けなかった事を、平然と尋ねる緒方。そしてこちらも平然と答えを返す佐為。 「それはいずれ、お分かりになる日もきますでしょ。今日の所はここで失礼させて頂きます。ヒカル行きましょう」 「うん、塔矢又な。緒方先生も芦原さんも失礼します」 「ちょっと待ってくれ。藤原さんはネットの”sai” なのか?」 緒方の問いかけに、二人がピタッ! と動きを止める。固まったヒカルは恐る恐る佐為を見る。 その佐為は、一種凄みのある艶然たる微笑みを浮かべ、振り向き様「いいえ」 と短く一言発し、女将に案内されて行ってしまった。 「凄い、あんなに綺麗な男性がいるなんて初めて見た。綺麗なだけにあの笑みは恐かったぁ。進藤君の事ヒカルって呼んでたよな、アキラ」 「そうでしたか?」 勿論塔矢も気づいていた、初めて聞く進藤の呼び名を。やはり前から、何かの関係があるとみてよさそうだ。 「何で不機嫌な顔してるんだよ」 「別にしてませんよ。僕達も部屋に行きましょ」 部屋に通されて、お茶を持って来てくれた仲居さんが下がると、「ドワァー! ビックリしたぁ。会ったらシャレになんないって言ってたのに、本当に会っちゃうなんて偶然って怖ろしい~」 「フフ、本当に会うとは思いませんでしたね」 「佐為ったら暢気なんだからぁ~」 「慌てても仕方ないでしょ。これで説明する手間が省けて良かったじゃないですか。なるようになりますよ」 性格なのか育ってきた環境なのか、佐為は大物だよまったく。しかしさっきの、妖艶と言えばいいのか、あの笑みは身震いする程綺麗で恐かった…… この一件で、佐為とヒカルの関係が白日の下にさらされる事となった。 そして、悪い人じゃないのだが、本当に本人に悪気は無いのだが、ちょっと口の軽い芦原から、この出来事が碁会所の市河さんに語られ、其処から波及的に広まっていくことになった。 だが、【ヒカルと佐為】 この二人の出会いを知らなければ、誰もその本質に迫る事は出来ないだろう。 アキラには何時か話すかもしれないと言った事があるが、あの時点では佐為が居なかったので言えた言葉である為、佐為が転生してる今は話す事は無いだろうと、ヒカルは考えている。 そして、ヒカルと佐為は生涯口外することは無かった。唯一人を覗いては…… 「俺もう面倒だから、全部ノーコメントにしよう。一人一人説明求められても出来ないよ。(プライベートにつきノーコメント) うん、これだな、これで行こう。佐為いいよな?」 「それでいいと思いますよ」 「佐為さぁ、塔矢先生とは打ちたくないの?」 「対局出来るものならしたいですよ。でも、難しいかもしれませんね」 「なんで? 塔矢先生だったら誰にも話さないでくれるよ。ねっ、そうやって頼んでみようよ」 「そうですね。出来たらそうしましょうか」 佐為はそう答え、ヒカルに優しく微笑んでいたが、おそらく叶わぬ夢になると考えていた。私はヒカルの為に存在するのです。ヒカルの歩く先を共に見詰め照らし続けるのが私の役目です。だからもういいのですよヒカル。 こちらは、塔矢門下の座敷。憮然とした緒方、明らかに何か考えこんでる様子のアキラ。只一人事態の把握をしていない、のんびりモードの芦原。 「二人共どうしたんですかぁ。久し振りに高級料亭に来られたのに、もっと楽しみましょうよ」 緒方にギロッと睨まれても、どこ吹く風の芦原。 「アキラ君、あの男はネットの”sai” ではないのか?」 「僕だって知りません」 「進藤には確認したのか?」 「したことはありますが、進藤も否定してました」 どっちも突慳貪なやり取りをする二人を、芦原が呆れた風情で眺めている。 「緒方さん、まだネットの”sai” に拘ってるんですか?」 「悪いか。大体saiなんて名前がそうそうある訳無いだろ」 「そりゃまぁね確かに珍しい名前ですが、絶対無いとは言えないでしょ。それに、HNが本名ってのはあんまり無いでしょ?」 「俺は、塔矢先生が入院してる時に確かに聞いたんだ。進藤が(saiとまた打ちたいんでしょ? saiも一緒です) って言ってたんだ。其の進藤が同じ名前の人物と居て、どうして疑わずにいられるか! おまけに棋院のバックスポンサーに突然就任したんだぞ。どう考えたって疑う余地がある」 塔矢も同じ事を思っていた。どう考えてもネットの”sai” だとしか思えない。だが自分は進藤の中にsaiが居ると思っていた。進藤とsaiは同一人物だとずっと考えていた。だとするなら、この考えを根底から崩さなくてはならない。あれ以来、saiはネットから消えたまま未だ現れない。 「だったら藤原さんに、対局申しこめばいいじゃないですかぁ」 そう言われた緒方は目を剥いて怒った。 「俺がどうして、頭下げなきゃならんのだ」 さっき、あいつに飲まれてしまった自分に腹がたつ! 「だって対局したいのは緒方さんの方なんでしょ? だったらこちらが頭下げるしか無いじゃないですかぁ。あちらさんは、別に対局したいって思って無いかもでしょ? 最も申し込んでも、断られるかもしれませんけどね」 いつも一言多い芦原。此処でも緒方にギロリと睨まれる。 「芦原、今日の食事代お前が払え」 「もぉ~大人げないんだからぁ。僕、今日は奢りって言われたから、お金持ってませんよ。ついでに言うならカードもありません。男に二言があったら駄目でしょ」 ますます憮然となる緒方九段「ああ、もういい。分かったわかった」 「アキラ、あの藤原さんて進藤君の師匠とは違うのか?」 「いえ、僕にも判らないです」 「お前どうして藤原さんを知ってるんだ」 ここで緒方さんと芦原さんに、最初に藤原さんに会った経緯を話すのは躊躇われたので、塔矢はその経緯をすっ飛ばした。 「昨年の北斗杯の時に会ったんですよ。ウィステリアホテルでしたから」 「ああ~、そういう事か」 ヒカルと佐為は、ふたりで極上の料理を味わいながら、この上もなく幸せなひと時を過ごしていた。ふたりで一緒に居る普通で当たり前の時間が、とてもとても嬉しかった。あの日にすべてが唐突に終わりを告げた、辛い過去を忘れられずにいるから…… そして塔矢門下の座敷は、お通夜のような暗い雰囲気のまま食事が進んでいた。流石に脳天気な芦原も匙を投げていた。もう、勝手にしてくれよ。