想恋歌
第二章 燦めく才能 第十四話 2014.2.14
碁会所に残ったメンバーは、夕食にする為に場所を移動中。 「俺今度引っ越しするんだけどさ、パソコン買おうと思ってるんだ。メアド設定したら皆にも連絡するな」 「引っ越し? 何時、何処へだ」 永夏が怪訝な面持ちをする。 「えっと、住所忘れた。日本棋院の近く。歩いて15分ぐらいの所。6月の2日と3日にする予定」 「ふーん、じゃ市ヶ谷ってことか。棋院に近いのは便利だね。塔矢も引っ越ししたんだろ? 場所は何処なの?」 「僕も市ヶ谷だよ。でも進藤とは駅を挟んで反対側だから、歩くと30分ぐらいかかる。自転車でも買おうかな?」 「それよか、二人共車の免許取らへんのか?」 「うん、車の免許も欲しいね。今度申し込みしてこようかと思ってる」 「えっ、塔矢マジ? 俺も一緒に行こうかな。社は取ったのか?」 「へへへ、ジャジャーン! お前らにも見せたるわ、ほれ」 免許証を振りかざす社。 「ウォッ、お前何時の間に。一発で受かった?」 「当ったりまえや」 「塔矢、一緒に行こう!」 「進藤、お前塔矢に勉強教えて貰おうと思ってるやろ?」 「当ったりぃ!」 夕食はヒカルの希望で中華レストランに決まった。これも、永夏が「ヒカル何がいいんだ?」 と聞いた結果だったのだが。 「今日は黄先生と楊先生と打てて、楽しかったね。また、対局したいね」 「国際棋戦に上がってくれば、イヤでも打てる。お前達早く上がって来い」 「そりゃ勿論、早く上りたいけどさぁ。中々思い通りにはいかないぜ」 「塔矢は名人戦どうなってるんだ?」 「今の所連勝してるよ」 「ヒカルと社は?」 「名人戦か。俺と進藤は予選Aに上がったんや。本因坊戦は2人共最終予選に上がった。塔矢は今月から挑戦手合やろ?」 「ああ、そうだよ」 「桑原のじいちゃんが相手だから、気抜くなよ塔矢」 「ああ~、あの老獪な爺さんか。強敵だね」 「秀英、老獪って何? 何で日本人じゃ無いのにそんな難しい言葉知ってんだ」 「ハア? 日本人なのに何で知らないんだ進藤」 「ほっとけ! で、何?」 「老獪って言うのは、十分な経験や知識を積んでいて、様々な方法や手段に熟達していて、しかも悪賢いこと。みたいな意味だよ」 これは、塔矢が講釈した。 「なぁーるほどぉ。まさに桑原の爺ちゃんそのものじゃん。塔矢頑張れよぉ」 「うん、全力を尽くすよ」 「塔矢、挑戦手合あるのに、免許なんか取りに行けるの?」 「そうだね、時間はかかるかもしれないけど、何とかなるんじゃないか? 先延ばしすると益々取りづらくなるだろ」 「そっか。じゃ気長に行こうか」 「進藤、お前は気長にせんでも、さっさと取ってええんやで」 「いや、ここはひとつ塔矢君に合わせる」 社と秀英が噴いた。 それからも、ああでもないこうでもないと話は弾み、楽しい食事を楽しんだ。永夏と秀英をホテルまで送って行き、社は大阪に帰るので、塔矢とヒカルで見送った。 「北斗杯も終わって何か寂しい感じするな」 「そうだね。でも僕達には次から次へと棋戦が待ってるから、歩き続けないとね」 「そうだな。今度引っ越し手伝いに来れる?」 「うん、勿論行くよ」 「悪いな。じゃ塔矢おやすみ」 「おやすみ進藤」 手を振り右・左に別れて帰途に着く。 ヒカルのドタバタ引っ越しも無事に終わった。手伝いには、塔矢・和谷・伊角・冴木・紅一点の奈瀬に、越智まで来たのには驚いた。 「越智! お前手伝いに来てくれたのか?」 「僕が手伝いに来ちゃいけないのか?」 「やだなぁ、誰もそんな事言って無いじゃん。ちょっと驚いただけだってぇ。ありがとな越智」 「ふん、同期の誼ってやつだよ」 「そうかそうか。うんうん」 ヒカルは嬉しそうにしていた。それを見た越智もちょっと恥ずかしそうだった。 ヒカルは、クローゼットやベッド、冷蔵庫に洗濯機にエアコン、テレビとビデオデッキ、パソコンにテーブルなどの大物はすべて新しく購入した。あとの細かい生活用品は実家から持って来たり、おいおい買い足していくことにした。パソコンのセッティングは、塔矢と和谷にやってもらった。 お昼には、母の美津子が全員の食事を作って持って来てくれたので、夜はお寿司をとって、近くのスーパーでオードブルの詰め合わせを買って来て皆で食べた。 一人暮らしを始めてみて、今まで親にして貰っていた事など、すべて自分でしなければならず、親の有り難みが身に沁みた。ヒカルは結構キレイ好きなので、掃除や洗濯はこまめにきちんとやっている。料理も簡単な物なら作れる様になった。ヒカルは基本、美味しい物を食べるのが好きなのである。 ヒカルの学科の勉強遅れのせいと、塔矢のスケジュールの都合で3ヶ月かかってしまったが、8月末には揃って免許も取得出来た。塔矢の本因坊戦は結果3勝4敗で、桑原本因坊の防衛となった。名人戦は、芹澤九段とのプレーオフになり、勝者が畑中名人への挑戦者となる。 主だった友達にパソコンのメアドを教え、永夏や秀英達の韓国勢ともメアドを交換した。最初の頃は、大体帰ってくる返事は殆ど一緒だった。【ご飯は食べてるのか・掃除洗濯はしてるのか・朝はちゃんと一人で起きられるのか・ゴミは溜めるな】 ばっかりだ。 「なんだよみんな、何でおふくろみたいな事ばっか言うんだよ。俺だってちゃんと出来るんだぞぉ。チクショー」 ひとりで喚いていたが、全員の返信が来る度に喚いてるのは虚しいのでやめた。 ネット碁も再開して皆とも打つようになった。知ってる人と打つのは勉強になっていい。何より、遠く離れた永夏や秀英、社とも打てるのが嬉しい。キーボード打つのが苦手でチャットも出来ぬヒカルだったが、和谷から「覚えなかったら検討も出来ねぇじゃねぇか!」 と特訓されて、早くは無いが打てるようにもなっていた。 奈瀬は平成18年度採用試験を受験することになる。プロ試験は、9月3日~25日までが合同予選で、それを勝ち上がった6名が10月1日~11月26日までの、16名による本戦に進む。 平成16年度の棋士採用試験からシステムが変更になり、夏季と冬季に試験が分かれるようになり、夏季は院生一位の者が自動的に棋士採用となり、外来は冬期に試験が行われることになった。女流枠は合同予選が12月3日~11日で、本戦は平成18年1月7日~29日に行われる。 今回で落ちたら、プロ棋士になるのは諦めようと奈瀬は思っていた。それを聞いたヒカルと和谷は、奈瀬にもネット碁を教え打つようになった。 ヒカルは永夏と秀英にも連絡をして、1回だけでいいので奈瀬と打ってくれるように頼み、検討もしっかりとしてもらった。永夏は相当忙しいので本当に一回きりだったが、秀英は時々打ってくれると、嬉しそうに話していた。時には塔矢や伊角、門脇なんかも相手をしてくれ、奈瀬はメキメキと力を付けていった。 これだったら、合格出来るんじゃないかと、塔矢も感想を洩らしていた。但し勝負事は水物。どんなに力があり強くっても、その日の体調やちょっとした判断ミスで、勝敗は大きく分かれる。院生仲間なので、やっぱ合格して欲しいという思いが強かった。 そんな頃、棋院から事務所に寄って欲しいと連絡が入ったのは、ようやっと一人暮らしにも馴染んできた9月の上旬だった。ヒカルにある一報が棋院から知らされる。 その日、事務所に行くと「進藤先生、忙しいのにすみません」 「いいえ、それで何ですか?」 「はい、実は指導碁の依頼が1件入っておりまして、進藤先生でお願いしたいと言うことなので」 指導碁の依頼なら、別に電話で事足りるのに、変だなと思いつつ「どなたからの依頼ですか?」 と尋ねてみると、思いもよらない名前が告げられた。 「はい、藤原コンツェルンの藤原佐為さんです」 「エッ?! ……藤原……佐為?」 「はい、そうです。進藤先生は藤原さんとお親しいのでしょう?」 「いえ、あの、いえ。指導碁? 藤原さんが指導碁……」 「おや、そうですか? 日にちは9月20日で、お食事もご一緒にということです。時間は午後4時に、ウィステリアホテルにおいで頂きたいとの事で、当日は車でお迎えに上がるそうです。どちらに迎えに来て頂きます?」 「……」 「進藤先生、進藤先生聞いてます?」 ヒカルは呆然としてしまって、事務の人が話してる半分も頭に入ってこず、再度同じ事を、言って貰わねばならなかった。 「では、進藤先生お願いしますね。先生大丈夫ですか?」 職員の問いかけにも、何と答えたのか思いだせぬ程、ヒカルは動揺していた。 『佐為が指導碁? 佐為が……。そんな馬鹿な、ありえないよ。じゃ、あの人は佐為じゃ無いってことなのか。やっぱり全くの別人だったって事なんだ』 自分のこの感情を、どう整理すればいいのかも分からない。佐為であって欲しいと願っていた自分の気持ちが、根底から崩れ去っていく。 佐為じゃなかった。佐為であればいいって思い込む気持ちが強すぎて、いつの間にか佐為なんだと、決めつけてしまってたんだ。だから、だから、こんなにも……俺は、バカだ。ハハ、可笑しすぎて、笑えないよ……全然。 何処をどう歩いて帰ったのかも覚えていなかったが、気がついたらアパートの前だった。無意識でもちゃんと帰り着くもんなんだな。リビングにへたり込み、暫くボーッと過ごしていたが、部屋が薄暗くなってるのに気づき、かなり時間が経っていることが分かった。食事の支度をする気も失せてしまったので、何か買ってくるか食べに行こう。明日の朝のパンはあったかな? 冷蔵庫の中を覗き、欲しいものを確認する。外に出ると、ムッとするような空気に包み込まれる。夜になっても外気温も湿度も高かった。 近くのコンビニで買い物を済ませ、ブラブラと歩きながらアパートに帰る。エアコンが作動している、何時点けたのかも覚えてないや。ヒカルはただ機械的に食事をし、シャワーを浴びベッドに横になった。何も考えられなかった。今は何も考えたくなかった。やがてウトウトし深い眠りに落ちていった。 「ウゥーン、うぅぅ――暑ッ!」 余りの暑さにガバッと起き上がった。エアコン点いてないじゃん。俺、消したっけ? タイマーにしたのか、記憶にない。 今日って何日、仕事入ってたっけ。9月は棋聖戦のリーグ戦・名人戦最終予選・天元戦本戦最終対局があるはずだよな。何か頭が冴えてないな。 ハッ! 思い出した、指導碁。夢オチじゃなかったか。そう言えば事務の人何て言ってたっけ? 9月20日の4時だったよな。20日? 俺の、誕生日じゃん。偶然か? 今日は休みで、明日が名人戦の最終予選対局日だ。休みなら祖父ちゃんの家に行って、佐為の碁盤見てこようか。ほんじゃ朝食作って、掃除してゴミ出しの日だからゴミ出して、シャワー浴びて出かけることにしよう。 「祖父ちゃーん、来たよぉ。上がるよぉ」 「おお、ヒカルよく来たな。上がれ上がれ。ヒカル饅頭食べるか?」 「うん、食べる」 「よっしゃ、待っとれ、今支度するからな」 おーいばあさん、ヒカルが来たぞぉ、と言いながら奥に入って行く。 「祖父ちゃん、俺お蔵に行ってるよぉ」 お蔵の2階に上がって行く。少し埃っぽさとカビ臭い匂いがした。そこには佐為の碁盤がデンと鎮座している。 「よう佐為、来たよ。変わりないか?」 持って来たタオルで丁寧に丁寧に拭いてやる。キレイになった碁盤を、愛おしそうに撫でて話しかける。 「俺さ、佐為がこの世に戻って来たのかと思ってた。時間を元に戻してって何度も願ったけど、いくら願っても戻らなかった。だから神様が佐為の魂を、新たにこの世に戻してくれたのかと思ったんだ。俺が願えば、神様が聞き届けてくれるかもしれないって思って。でも、違ったのかも。佐為とおんなじ名前で顔も姿もクリソツなんだぜ。背は今の佐為のが高いかな。でも、これも神様が仕組んだ事かもしれないよな。せめて姿形の同じ人を、俺に会わせてあげようっていう……。俺と過ごした佐為じゃないかもしれないけど、だったら最初から始めればいいんだ。指導碁を頼んでくるなら、俺の事嫌っちゃいないと思うし。聞いてる佐為? 指導碁だぜ。俺が佐為に指導碁なんて、笑っちゃうよな。俺、囲碁頑張ってるからさ、佐為見ててくれよ。じゃ、又来るからな」 居間に戻っていくと、祖父ちゃんが碁盤の前に座って待っていた。 「ヒカル遅かったな。ほれ、饅頭とお茶だ。たくさん食べろ」 其処に祖母ちゃんもやって来て、ニコニコしながら座り、 「ヒカル、久し振りだね。頑張ってやっておいでかね。余り無理するんじゃないよ」 「うん、祖母ちゃんありがとう。祖母ちゃん、体の方は大丈夫?」 「ああ、大丈夫だよ。まだまだ、爺さんには負けんよ」 「何を言っとるんだお前は? ホレ、ヒカルにお茶注いでやってくれ」 「はいはい」 「ありがと祖母ちゃん。この饅頭美味いね」 「ヒカル、そろそろ打つぞ」 「はいよ。置き石は置かないんだよな?」 「当たり前だ。手を抜くなよヒカル。握るぞ」 夕方まで祖父ちゃんと打った。勝ち負けに拘らない碁を打つのは、楽しいものだ。夕食は祖母ちゃん手作りの豚カツと茶碗蒸し、インゲンの胡麻和えと大根の味噌汁を腹一杯平らげて、「又、来るからねぇ」 と手を振りながら帰った。 祖父ちゃんや祖母ちゃんに会って、佐為の碁盤にも語りかけて来たことで、ヒカルは落ち着いて来たのを感じる。 明日はいい対局が出来るかも知れない。佐為の事は、ウジウジ考えても仕方ない。20日になれば、すべて判るもんな。 明くる日、名人戦の最終予選1回戦は、無事に勝ちを収めた。これで次の2回戦準決勝に勝てば、名人戦リーグ入りが決まる。社の対局は来週あるはずだ。今夜社にメール報告しておこうっと。 天元戦の本戦最終局は9月23日にある。確か和谷と越智で対局して、勝者がヒカルと対局になるはず。棋聖戦のリーグ戦は10日に対局。塔矢はシードで越智もリーグ入りをしている。越智は規定により7段に昇格していた。 ヒカルはおかしいなぁ? と思っていた。棋院から新たにスケジュール表を貰ったのだか、20日から22日まで何故かスケジュールが空いている。確か何処かに予定が入ってたはずだと思ったけどなぁ。ヒカルは知らなかったのだが、これは佐為が棋院に無理を通して、スケジュールを変更させたのだ。さすが、バックスポンサー【無理が通れば道理も引っ込む】 を早速実践した。 和谷と越智の天元戦は、和谷に軍配が上がった。これで、挑戦権を賭けた対局はヒカルと和谷に決まった。どちらが勝っても、初めての天元戦挑戦者となる。 棋聖戦のリーグ戦も4勝1敗で勝ち、11月に挑戦者決定戦に出る。相手はBリーグの勝者で、塔矢と越智が同率一位なので、10月にプレーオフをする。本因坊のリーグ戦は来月から始まる。ヒカルは着実に一歩、一歩前進し続けている。 そして迎えた20日の朝、何時もより早く目が覚めてしまったヒカルだったが、その日はいつもの様に掃除洗濯をし、買い物もして、1時頃からはひとりで棋譜並べや検討などして時間を過ごした。3時半に迎えに来るとの事だったので、3時に着替えをし待っていた。 3時半きっかりに、家の呼び鈴がなった。出て行くと制服に身を包んだ人が、「進藤ヒカル様ですね。ウィステリアホテルよりお迎えに上りました。どうぞこちらへ」 「はい、ありがとうございます」 運転手にドアを開けて貰い乗り込む。 「30分程でホテルに到着致します。ホテルに到着されましたら、フロントの者にお名前をお告げ下さいませ。係りの者がご案内を致します」 「はい、解りました」 ヒカルは心臓の鼓動が、他の人にも聞こえるのじゃないかと思うほど、ドキドキしていた。 ホテルに到着し、フロントに恐る恐る歩いて行き、「あの、進藤ヒカルです」 と名前を告げる。 「いらっしゃいませ進藤様。オーナーがお待ちかねでございます。ご案内致しますどうぞ」 し、静まれ俺の心臓…… 客室の最上階に到着し、高級なカーペットの上を歩いて行き、とあるドアの前でホテルマンが立ち止まった。 「こちらでございます。オーナー、進藤様がおいでになられました」 開け放たれた運命の扉の先には、優しい微笑みを浮かべた……彼がいた。