想恋歌
第一章 ふたたびを貴方と 第九話 2013.12.10
黄 は部屋へ帰ると、支度を整えた。 明日は中国の北京で、【春蘭杯 世界囲碁選手権】一回戦の対局がある為、今日の夕刻には北京入りしなければならない。中国ルールで行われるトーナメント国際棋戦である。優勝すれば賞金は15万ドル(120万元=約1800万円) になる。 その前に、奈津美さんに電話をと思い自宅にかけてみたが、お手伝いの人は「今日はお友達と会って来る」 そう言って外出しているという事であった。邪魔するのは悪いと思ったが、携帯にかけてみる。 「もしもし、黄さんなの?」 「はい、黄です。奈津美さん、その後お変わりありませんか?」 「ええ、ありがとう。佐為の入院中は色々ありがとうございました」 「いいえ、どう致しまして。ところでデート中お邪魔して申し訳ありませんが、一つお聞きしたい事がありまして」 「あら、いやだ。デート中なんて。黄さんでも冗談言うのね」 「……私だって冗談の一つぐらいは言いますよ。それよりお聞きしたいのは、佐為が入院してる時に、進藤という囲碁のプロ棋士が、見舞いに来ませんでしたか?」 「……ええ、お見えになりましたよ。何回かいらっしゃってくださいました」 「えっ、来ましたか。彼は一人で?」 「一番初めは、塔矢さんと一緒にお見舞いにきてくださいました。その後は進藤さんお一人でしたけど。黄さん、進藤さんがどうかしたのですか?」 「奈津美さん、明後日はお暇ございますか? よければ私とデートしていただけませんか?」 「あらまっ! 黄さんのようなステキな殿方とデートなんて、いいのかしら? でも黄さん何考えてるんですか? 進藤さんのことで何かあるんですね」 「フフ、多分お昼ごろには空港に着くと思いますから、到着したらお電話入れます」 「黄さん対局は大丈夫なんですか?」 「明日は【春蘭杯】 の対局がありますけど、頑張りますからご心配なく」 「解りました。お待ちしています」 「では、また」 北京首都国際空港から成田へ就航している航空会社に電話をかけ、全日空8時30分発で席が確保出来た。北京にそのまま一泊すれば、移動も無いので楽だ。 電話が終わってからも、奈津美は黄と話した内容に囚われていた為、少し黙り込んでいたようだ。 「奈津美、誰とデートするの? 今の電話誰なの? ボーッとしちゃってるけど」 「ああ、ごめんなさい。佐為のお友達よ。何か話があるみたいなの」 「あら佐為ちゃんの? その後佐為ちゃんは変わりないの?」 「ええ、ありがとう。大丈夫よ。それより紗也子、いい加減佐為ちゃんって呼ぶのやめたら? 佐為はもう26歳になるのよ」 「アハハハ! 小さい時からそう呼んでるから、中々直らなくてぇ。でもほんと26歳になる男性に"ちゃん" は無いわね。本人の前では気をつけるわ」 本人の前だけなのねと、小さくため息をつく。 奈津美も、佐為のことで相談したい事があったのだが、さて、誰に相談すればとなると、思い当たる人が居なかったのである。黄さんが来るなら、ちょうどいいわ。ちょっと相談に乗ってもらおう。 黄は、春蘭杯で中押し勝ちで勝利を収めた。楊も1回戦は勝ち上がった。 そのあくる日、全日空8時30分発成田行きに搭乗した。 成田へ4時間半程で無事に到着し、奈津美さんに電話をかける為に携帯を取り出した。と、背中越しに「黄さーん」 声がかかりビックリして振り向いたら、奈津美さんが立っていた。 「おやおや、成田まで来てくださったんですね」 「フフ、驚いた?」 「ええ、十分に」 そう言いながらウインクした。黄泰雄 、韓国囲碁界でも郡を抜く実力者であり、情に篤い男である。おまけに、永夏共々韓国囲碁界のプリンスと謳われる容姿の持ち主である。 永夏がCoolな美貌の持ち主なのに対して、黄は穏かな暖かさを備えた美貌の持ち主である。 「黄さん、都内まで戻るの? ウィステリアホテルにします?」 「さて、どうしましょうか。ウィステリアじゃない方がいいですね」 「あら、佐為に知られると不味いの?」 「どっちかと言えばそういう事になりますね。佐為は今韓国ですから、鉢合わせはしないと思いますけど……」 「あら、佐為は韓国に行ってるの? そういえば黄さん、対局はどうなったの?」 「お陰様で、勝ちましたよ」 「まあ、それは良かったわ。さすが黄さんね」 「ありがとうございます。奈津美さん、今更都内観光でもありませんから、ヒルトン成田に行きませんか? 私は今日は一泊していきます。そこならゆっくりお話出来ますからね」 「ええ、いいわ。じゃ、そうしましょう」 ヒルトン成田に着き、黄は宿泊の部屋を予約し、個室で食事の出来るレストランに予約を入れて貰った。 和食のお店の個室に入り、料理を注文し終え、黄は鞄から綺麗に包装された小箱を出した。 「奈津美さん、お土産です。これは奈津美さんに、こちらは、可奈子ちゃんに、これは光一君に」 「あら嬉しい! 子供達にまで頂いてありがとう。開けてみてもいいかしら?」 「ええどうぞ。お気に召すといいのですが……」 包装を解いてみると、ペンダントが入っていた。 「まあ、ステキ! 綺麗だわ。お高かったんじゃないの?」 「いえいえ、奈津美さんが普段使いしてるものより、ずっとお安いものですよ」 「あら、私だって普段から高価なアクセサリー着けてる訳じゃないわよ」 「何を仰います社長婦人が。今日着けてるネックレスだって、相当高価ですよね」 黄は、結構宝石の目利きが出来るのである。 「だってぇー、今日は普段じゃないですもの。何しろ韓国囲碁界のプリンスとデートなんですから」 「それは、光栄でございます」 黄はハハッと苦笑し、奈津美は軽やかに笑っている。黄は、奈津美の飾らないざっくばらんな所が、好きであった。 奈津美の夫は、藤原コンツェルンの傘下グループ【橘 海運株式会社】 の社長をしている。 子供は、高校1年になる女の子と、中学2年の男の子がいる。光一は毎日サッカーで泥だらけになると、ぼやく奈津美である。藤原コンツェルンのお嬢様として育ち、現在は社長夫人として過ごす奈津美は、世の奥様方から見れば羨望の的であろう。 「それで奈津美さん、本題なんですが、佐為は進藤君が見舞いに来たことを知らないようでしたよ。 佐為に話してないのですか?」 「ええ、そうなの。話してないの」 「何故です?」 「進藤さんからそうやって頼まれたの。自分が見舞いに来てたことは話さないで欲しいと」 「進藤君が? 彼はまた何故そんな事を」 「私も解りません。ねえ、黄さん、佐為と進藤さんて何か係わりがあるんじゃないの?」 「どうしてそう思うんです」 「実は、彼が最初に塔矢さんとお見舞いに来てくれた時に、佐為を見て涙を流していたわ。堪えても堪えきれなくなった涙が、溢れてきてしまったような、そんな涙だと思ったわ。お見舞いに来てくれた方は大勢いらっしゃいますが、あんな風に泣いてた方は進藤さん一人です。勿論、身内は別よ。それからは一人で度々病院に来てくださったの。ある日、たまたま私が病室に居なかった時があってね、病室に入ろうとしたら、佐為の手を握って話しかけてる進藤さんが居たの。彼こう言ったのよ。『また、置いて行かないで、一人にしないで』 って。ねえ、"また" って言うのは、以前にも佐為が、進藤さんを置いて行ったって聞こえるでしょ。何て言うのかしら? その言い方がまるで消えてしまった、みたいに聞こえたのよ」 「成る程……」 ヤッパリ進藤君は、自分に囲碁を教えてくれた佐為だと、思ってるってことなのだろうか? 「それとね、私佐為が入院してる間は知らなかったのだけど、進藤さんの名前【ヒカル】 って言うんでしょ?」 「ええ、そうですよ。それが何か?」 「私、誰にも話してないのだけど、勿論佐為にも。佐為が気が付いた時、私しか側に居なかったから。佐為が目覚めて徐々に眼を開けた時に呟いたの”ひ・か・る” って。意識がはっきりと覚醒してない時だから、無意識だったと思うのよ。その時は、【ひかる】 が何か解らなかったの。灯りが光るとか、何かが光るのか、人の名前なのか。でも、佐為が退院して落ち着いてから、たまたまTVに進藤さんが映ってるのを観て、その時に【進藤ヒカル】 って名前を初めて知ったの。だからあれは、進藤さんの名前を呼んだんじゃないかって思えて。黄さん、どう思います?」 佐為が話していた。DVDを再生するみたいに、ヒカルと過ごした日々を夢の中で見ていたと。で、あるなら、やはり無意識下で呟いた言葉なのだろう。 「そうですね。その可能性は非常に高いでしょうね」 「ねえ、あの二人は以前にどんな係わりを持っていたの? 昏睡から目覚めて"ヒカル" って呼ぶほど、あの二人には何かあったの?」 さてどう言ったものか。 「奈津美さんのお話を聞いて、私が言えるのは一つだけです。佐為と進藤君は、過去に何らかの係わりを持っていたのではないか? と推測出来る事だけです。後の事は、佐為本人から聞かないと私にも解りません」 「そう。退院してから温泉療養してたでしょ。その時に数枚の棋譜を、真剣な顔をして見ていたことがあるの。私は勿論、棋譜を見てもチンプンカンプンだから、それが誰の棋譜なのかは全く解らないのですけど。あれって、進藤さんの棋譜だったのかしら?」 「そうですか……棋譜をねぇ」 「それにね、昏睡から目覚めた佐為を見てて思ったのだけど、何だか以前の佐為とは何処か違うような……。いえ、佐為なんですけど、なんかこう別の人格になった、訳じゃなくて、うーん、なんて言えばいいのかしら……」 「何かがプラスされたような? ですか」 「あっ、そうそう。佐為の人格に何かが加わったような感覚を覚えたの」 黄はその時閃いた。楊と話していた時に自分で言ったではないか。何かの霊が取り付いたとか? 置いて行かないで……逝かないで? 逝く、行かない。行く、逝かない。イヤ、解らないな、思考が纏まらない。 「奈津美さん、佐為と進藤君には、二人だけにしか解らない絆があると思います。この先何があっても、私達は二人を見守っていくしか出来ないのかもしれないです」 「何かってなに? 黄さんヤッパリ何か知ってるのね」 「私からは言えませんよ。それは佐為本人から聞くべきことです。話してくれるかどうかは解りませんけどね。私が言えるのはここまでです、奈津美さん」 「ハァ。佐為も黄さんも、ホントに強情なんだから」 「ふふふ、申し訳ありませんね。この話はこれで終わりにしましょ。あまりにも情報が少なすぎて、推論だけの話になってしまいますからね。さて、お食事にしましょうか」 食事をしながら奈津美は子供達のことや、会長であるお祖父様の事など、賑やかに話していた。夕刻には黄とまた会おうと言って別れた。釈然としない思いは残っていたが、タクシーで家路に着いた。 黄はホテルの部屋で、奈津美と話した内容を思い返していた。佐為の人格に何か加わったような。置いて行かないで、逝かないで。 黄にはこの時、一つの可能性が思い浮かんでいたのだが、到底すんなり納得出来る事象では無かった。 「うーん、そんなバカな事あるはずないですよ。大体確かめようも無いことですし」