想恋歌
第一章 ふたたびを貴方と 第四話 2013.11.9
佐為は、北斗杯が終わった日から1ヶ月程中国に行っていたが、6月の中頃帰国し忙しい日々を送っていた。 その後は韓国に行ったりと、海外出張も増えている。 時折仕事の合間に、ふと彼のことを思い出したりしていたが、だからと言ってそれ以上どうなるものでもない。 この間は竜星戦で優勝したという新聞記事を見た。 季節は秋の気配色濃く、すでに10月に入っていた。 北斗杯が終わってから、何かとマスコミにも取り上げられているので、彼の情報は結構目にする。 今日は、仕事の合間に姉の家に寄る所である。 時間が出来たら、一度家に顔を出して欲しいと言われていたので、向かっているところである。 多分また見合い話だなとは、思っていたけど。 「ハァ……なつ姉さんも懲りませんね。結婚する気は無いと言ってるのに」 その時、激しい衝突音とタイヤの軋む音が四方から聞こえ、佐為の乗った車も激しくぶつかった。 その衝撃で佐為は激しく体をぶつけ、それ以降の記憶が途切れる。そのまま意識が無くなった。 暫くして運転手が気がつき「佐為様、佐為様!」 呼びかけるが反応がない。前方で火の手が上がっているのが見える。 運転手はこのまま車内にいるのは危険と判断し、佐為を抱えて車から離れた所まで運んだ。 奈津美は、来る予定の時間をかなり過ぎても佐為が来ないので、携帯に掛けてみたのだが不通であった。 こんな事は今まで無かった事なので、奈津美はとても不安を覚えた。 その不安が的中したかのように、すぐ上の兄から電話があり「佐為が交通事故に巻き込まれて、都立総合病院に運ばれた」 という知らせが入った。 取るものも取りあえず病院に駆けつけると、ICUの前には兄2人と、会社の関係者も来ていた。 「お兄さん、佐為は? 佐為の具合は?」 「奈津、まだ解らない。今色々検査と治療しているが、意識がないのだそうだ」 「そんな佐為……。事故ってどんな事故だったの?」 「詳しくは解らんが、運転手が言うには多重衝突事故らしい。前の方を走ってる車同士がぶつかって、其処に次から次にぶつかったり、ぶつけられたりしたらしい。佐為の乗ってた車は、後ろの車がぶつかってきた方だ。運転手は幸い軽傷で済んだ」 「……」 「奈津、しっかりしなさい。佐為は大丈夫だ。絶対助かる」 「ええ、お兄さん。……私が呼ばなければこんな事には」 「それは言っても詮無いことだよ、奈津」 「そう……ですね」 暫くして、検査をしていた医師が出てきた。藤原コンツェルンは、この病院に多額の寄付もしているので、主要な医師とも顔見知りである。 「藤原さん、佐為さんですが、MRI・CT・脳波などすべて検査しました。幸い体は打ち身だけで内臓などに異常はありません。脳内も特に異常が見当たりません。ただ意識だけが戻りません。暫くICUで経過観察していきます」 「解りました。お願いします」 「先生、会えますか? 会ってもいいですか?」 「大丈夫ですよ奈津美さん。あちらの看護師の指示に従ってください」 看護師の指示で消毒をして、白衣とマスク帽子をかぶりICUに入る。奈津美は佐為の手を握り泣いていた。 『お母様、お母様、佐為を助けて。お願いお母様』 顔にも傷一つなく、きれいなままだった。暫くそうして佐為を見詰めていたが、兄にそろそろ出ようかと促されてICUを出る。 奈津美と佐為は一回り年が離れている。すぐ上の兄とは2歳違いで一番上の兄とは5歳違いである。だから奈津美や兄達にとって、佐為は自分の子供のような感覚があった。三人とも、佐為がとても可愛かったのである。 暫くして父と叔父が駆けつけて来た。奈津美の夫は、今アメリカに出張中なので、調整つき次第帰国すると連絡が入った。 佐為は夢を見ていた。いいえ、これは夢ではない。時折、夢で見ていた事は、現実に自分自身が体験した出来事だった。平安装束の自分が、主上と碁を打っている。 「佐為、これはこにに打ったほうがいいのか?」 「そうですね、主上。その手もいいですが、こちらに打ったほうが、後の展開が楽になるかと思いますよ」 「ああ、そうか。佐為、私は少しは上達したか?」 主上が問いかける。傍らでは女房が、扇子で口元を隠し微笑んでいる。 「それはもう、主上はなかなか筋が宜しいようですよ」 そう答えている自分がいる。 「そうか」 嬉しそうに笑う主上がいる。 そうだ、自分は平安時代の碁打ち『藤原佐為』 あの男の姦計に嵌り、汚名を着せられ入水したのだ。 ああ~私はなんという愚かな事をしたのだろうか。我と我が身を自らの手で葬ってしまうなど、決して許される事では無いのに……だが、今更悔いてももう遅い。 自ら命を絶った私なれど、現世に未練を残したままだった。もっともっと碁が打ちたい。 あの男に陥れられ、どうしてこの魂が安らげるだろうか。成仏出来ぬ魂はさ迷い、ある碁盤を媒体として住み憑き虎次郎と出会った。その虎次郎を見送り、私はまた碁盤に憑きヒカルに邂逅したのだった。 私は虎次郎と同じく、ヒカルも自分が見送るものだと思っていたが、消滅したのは私の方だった。あの時に自分の魂が摩耗していくのを感じていた。しかし私の魂が行き着いた所は、常世と現世の狭間。 私の魂は未だ天界に運ばれていない。ならば、私をもう一度戻して、ヒカルの側に。あの子が泣いている、私を呼んでいる。私は神に必死に願った。けれど私は、かなりの時間其処に留まっていたようだ。 そうして見つけた、ようやく。戻るべき肉体が同じ時代に存在していた。私には、まだ為すべきことがある…… しかし自分の自我が強すぎて戻れないなんて、聞いたことありませんよ。せっかく巡り会ったヒカルに、辛い思いをさせてしまいました。でも、今なら戻れます。やっと帰ってきました。 ヒカル、私の可愛いヒカル、もう少し待っていて……もうすぐ貴方の側に。 ――ふたたび 貴方と―― 塔矢は新聞記事で、藤原さんが交通事故に遭ったのを知った。進藤に教えるべきだろうか? 新聞読んでるだろうか? でも、今月は棋聖戦のリーグ戦の最終戦と、王座戦の挑戦手合いがある。最終戦に勝てば挑戦権をかけて、もう一人のリーグ勝者と対局する大事な棋戦だ。教えて動揺させることなんて出来ないし、黙ってる事も出来ない。 どうしたらいい……結局、棋聖戦と第一局の王座戦が終わったら、進藤に伝えることにしようと決めた。 ヒカルは棋聖戦の最終戦と、王座戦の挑戦手合い第一局に勝利した。塔矢は棋聖戦のリーグ最終戦で負けたので、ヒカルと戦うことはなくなった。不謹慎な言い方だが、ちょっと気が楽になった。 「進藤、今ちょっといい? 話しておきたい事があるんだけど」 「うん、なに?」 「3週間程前だと思うんだけど、藤原佐為さんが交通事故にあった」 「えッ……塔矢、今なんて」 「多重衝突事故に巻き込まれて、入院してる。今も、意識が戻らなくて昏睡状態だって」 進藤は目にみえて青ざめ、ガタガタ震えだした。 「なんで、なんで、そんな……塔矢、お前知ってたのか? 知ってたなら、何で教えてくれなかったんだよ!」 「ごめん。すぐに教えたいと思ってたけど、君は大事な棋戦が控えてたから、それで……ごめん」 「……怒鳴ったりして。ごめん、塔矢」 「今から都合つくなら病院に行ってみないか?」 「お前は大丈夫なの?」 「うん、今日の仕事はもうないから」 二人でタクシーに乗り込み病院に向かう。 受付で確認すると、今はICUから出て特別室にいるらしい。病院の花屋さんで花を調達した。慌てて来たので手ぶらで来てしまったのだ。特別室の前に着きドアをノックすると、中から品のよい綺麗な女性が現れた。 「はい、どちら様ですか?」 「僕は囲碁棋士の塔矢と申します。彼は同じく棋士の進藤です。佐為さんのお見舞いに伺いました。一目お会いする事は出来ますでしょうか?」 「佐為は今も昏睡状態です。それでも宜しいですか?」 「はい、突然で申し訳ありませんが、お願いします」 「では、どうぞ」 二人は軽く会釈して入室する。点滴やその他の医療器具に囲まれて、佐為がベッドに寝ていた。 ベッドの側に寄ると、塔矢は進藤を自分の前に廻らせた。進藤はじっと見詰めていた。唇をグッとかみ締めているが、堪えきれなくなった涙が眦から頬を伝わる。その涙を服の袖でゴシゴシ拭いている。奈津美はそれを黙って見詰めていた。 二人とも整った容姿を持つ青年だった。囲碁棋士と言っていたからプロという事になる。お見舞いに来て、こんな風に涙を流す人は初めてだと思う。塔矢と名乗った青年が心配そうに見ている。 すると、その青年が花を差し出して言った。「病室に飾ってください」 「ありがとうございます。お二人は佐為とはどちらで」 「5月の上旬にウィステリアホテルで、北斗杯と言う18歳以下の韓国・中国・日本の選手で戦う棋戦がありまして、そこで佐為さんにお世話になりました」 「まあ、そうでしたか。私は佐為の姉で、橘奈津美と申します」 「あの、不躾で申し訳ないのですが、何故昏睡状態から目覚めないのでしょうか?」 「それが医者にもよく解らないそうなんです。体にも脳にも何処にも異常は無いのです。目覚めてしかるべきなんですが」 「じゃ、ずっとこのままって事もあるってことですか?」 涙を流した青年が尋ねる。 「ええ、目覚めるかこのままの状態が続くのか、全く解らないのです」 「そんな……」 また、新たな涙が溢れそうになるのを、慌てて口元を押さえる。 「進藤そろそろお暇しようか?」 進藤が僕を見て小さく頷く。 「突然すみませんでした。失礼致します」 「いいえ、こちらこそありがとうございました」 二人で挨拶をし扉に向かいかけた時、進藤が突然立ち止まって振り返る。 「あの、また伺ってもいいですか?」 前髪が金髪の進藤という青年が問い掛けた。その様子が迷子になった子猫のように、奈津美は思えた。 「ええ、どうぞ」 穏やかに微笑んでいるその笑みは、佐為にとてもよく似ている。 「お邪魔しました。失礼します」 「塔矢、ありがと。何かいつもお前に世話かけっぱなしだな俺」 「気にしなくていいよ。僕達は友達なんだから」 君は僕の大切な友達だから。だからいいんだ、進藤…… 佐為の事が気になったが、かと言って毎日行く訳にもいかないし、第一棋戦や仕事が一杯で、病院に行くのもままならない。それでも1週間に1回ぐらいは、見舞いに行こうと思っていた。 ヒカルは、ある思いに囚われていた。あの人は俺と一緒にいた佐為じゃない。そう思った傍から、ヤッパリ佐為じゃないだろうか? そう思う気持ちが、どうしても拭えなかった。毎日毎日、気持ちが浮いたり沈んだりしている。 そんな中、王座戦の第二局が山梨県の甲府であり、ヒカルは負けた。現王座は、緒方九段だ。対局が終わり緒方がヒカルに声をかける。 「何か心に懸かる事でもあるのか? お前らしくない碁だったぞ。心の動揺で碁に影響が出るようじゃ、タイトルホルダーにはなれないぞ」 「解ってます」 「次は期待してるからな進藤」 「はい……」 悔しかったが緒方の言うとおりなので、ヒカルは何も返せなかった。そのまま、東京の自宅に戻った。明日は休みだからお見舞いに行くつもりだ。 あくる日は花を買い、お姉さんも居るかと思いチョコレートの詰め合わせも買っていった。 病室のドアをノックしたが誰も出てこなかったので、そっとドアを開け"失礼します" と声をかけたが誰も居ないようだった。 入るのを躊躇ったが思い切って入室した。ああ~佐為がベッドに寝ている。まるで人形が寝ているようだった。 ベッドの側の椅子に腰掛け、佐為の手を握る。初めて触る佐為の手。違う、佐為じゃないのだ。イヤでも佐為だ。 ヒカルにはもう、佐為なのかそうじゃないのか、境界の判別がつかなくなって来ていた。 「眠っていても佐為は綺麗だな。何故目を覚まさないのだろう。また俺を置いて逝くの? 何処にも行かないで逝かないで……お願いだから。俺を一人にしないで佐為。神様佐為を助けて、お願い助けてッ」 自分と過ごした佐為じゃないとわかっていても、今目の前に居るこの人を失いたくなかった。 ヒカルは佐為が消えた時の衝撃を、忘れられないでいた。自分の大事な半身を失ってしまった。自分の無慈悲な言動で……。時間を戻して欲しいと、何度願った事か。だが現実の時間は容赦なく過ぎ去っていくばかり。 奈津美は入室しようとして、人の話声が聞こえるのに気がついた。そっと覗くと進藤さんが佐為に話しかけている。 奈津美はヒカルが言った言葉を聞いていた。「また俺を置いて行かないで」 と彼は言った。 "また"というのは、以前にも佐為が進藤さんを置いて、何処かに行ったという風に聴こえる。 この場合行ったといっても、ちょっと其処まで買い物に、という訳じゃない。 奈津美は少し時間を置いてから、わざと音を立てて病室に入った。 「まあ、進藤さん。今日もいらしてくださったのですね。ありがとうございます」 ヒカルは慌てて立ちあがり「お邪魔しています。これ、花とチョコレートです」 「まあ嬉しい。どうもありがとう。そんなに気を使わないでくださいね」 「あの、まだ状況は変わりませんか?」 「ええ、残念ながら。早く戻ってきて欲しいのに、何処に遊びに行ってるんでしょうね」 「……本当に」 「棋戦は如何ですか?」 「王座戦の第二局は負けてしまいました。棋聖戦の挑戦者決定戦はもうすぐあります」 「まあ、そうでしたか。それは残念でした。佐為のことが気掛かりだったのでしょうか」 「いえそういう訳では……自分の未熟さ故です。すみません、これで失礼いたします」 「はい、ありがとうございました。あの進藤さん、もし宜しければ携帯の番号を教えて頂く事は出来ますか?」 「それは構いませんが、何か?」 「佐為の容態をお知らせします。良くても悪くても知れば落ち着きますでしょ? もちろん良い知らせがお伝えできれば一番なのですが」 「解りました。ありがとうございます」 ヒカルはメモに書いて渡す。奈津美も自分の番号を書いてメモを渡した。 「では、これで失礼します」