想恋歌
第一章 ふたたびを貴方と 第一話 2013.10.28
月日は目まぐるしく流れ、佐為が消えてから3年余り経ち、ヒカルは17歳になっていた。 あどけなかった面立ちも精悍さをおび、青年への階段を上り始めている。 棋戦も順調に勝ち星を増やし、今やいくつかの本戦と最終予選に入っている。勝ち抜ければリーグ戦と挑戦手合いに出られる。 塔矢はすでに棋聖戦と名人戦のリーグ入り、碁聖戦と十段戦の挑戦手合いに出たことがあるので、七段に昇格していた。 ヒカルも和谷もまだ四段である。そして伊角は三段。 「あ~あ、早く昇段したいよなあ」 いつもの様に、和谷と伊角さんとファミレスで食事中。 「焦るなって進藤。着実に一歩一歩上がっていくしかないんだから」 伊角が年上らしくヒカルを諭す。 「分かっちゃいるんだけどさぁ……」 「お前は今年の北斗杯も出場じゃないか、贅沢言うなよな。俺なんかどんなに頑張っても、出られないんだからな」 和谷が盛大に愚痴っている。北斗杯は今年で3回目になる。1回目の北斗杯が好評だったので今年まで続いている。 「で、今年も塔矢ん家で合宿するのかよ?」 「うん、そのつもり。社があんまし学校休めないから、2泊3日ぐらいかな?」 「社って、まだ親に認めて貰えないのか?」 「そうみたい。大変だよな色々と社も」 「さて、そろそろ手合いに戻るか。午後が始まるぞ」 ヒカルは52期王座戦の最終予選で、勝てば本戦に出場出来る。伊角は名人戦の予選Bで、和谷は竜星戦の本戦、勝てば決勝トーナメント出場が決まる。 ヒカルはすでに、決勝トーナメントの出場が決まっていた。 「さあて進藤、全力で頑張るぞ!」 「オオー!」 ヒカルも拳を振り上げ二人で走り出す。 その後を伊角が「慌てるな、走るなよ!」と追い駆けていく。 そして今日の棋戦は3人とも順調に勝ちを収めた。 北斗杯が始まろうとしている4月の下旬頃、久しぶりに塔矢の碁会所でお互いの棋戦の検討をしながら打っていた。 ヒカルは4月に、棋聖戦の最終予選を勝ち抜け、リーグ戦出場を決めている。このリーグ戦入りの規定で、ヒカルは一足飛びに七段に昇格した。 いつもの如く激しく言い争いながら検討していたが、今回はヒカルも帰ることなく、6時頃一緒に碁会所を出た。 「市河さん、またねぇ」 「はーい、二人とも気をつけてね」 市河さんや常連客達も、にこやかに送り出してくれる。 「なあなあ、どっかで晩御飯食べようぜ」 ヒカルが嬉々とした表情を浮かべ、塔矢の顔を眺めている。 「いいけど、何にするんだ。ラーメンはいやだよ」 「ちぇ、なんだよ。うーんラーメン以外か。安くて美味い洋食は?」 「うん、いいよ。心当たりあるのか?」 「全然なーい。お前ある?」 「なんだよ、自分で言い出しておいて。そういえば芦原さんが、ホテルウィステリアの近くに、美味しい洋食のお店があるって言ってた。其処にしてみる?」 「いいな、そうしようぜ」 二人で他愛無い話をしながら歩いて行く。 「今度お前ん家に行くの、1日からでいい? で、3日の朝一旦帰って着替えてホテルに行く」 「うん、それでいいんじゃないか。社も大丈夫だって?」 「ああ、OKって言ってたよ」 「今度こそは韓国に勝ちたいよな」 ヒカルが拳を握り締め言う。 「うん、絶対勝つ!」 1回目はヒカルが高永夏 に負け、2回目は塔矢が永夏に負けた。日本の優勝もまだないので、今年こそは日本が優勝するんだと決意を胸に秘めていた。 もうすぐホテルの目の前に差し掛かかる距離まで来た時、軽快に歩いていたヒカルの足が止まった。 塔矢は突然立ち止まった進藤を、怪訝な面持ちで振り返った。 「進藤、どうした?」 その塔矢の声も聞こえないのか、ヒカルは目を見開きある一点を凝視していた。 塔矢は明らかにおかしいヒカルに近づいた。体も唇も震えていて、顔色は真っ青になっている。 「進藤、どうしたんだ? 大丈夫か?」 その進藤の口から、囁くような呟きが洩れた「さい」 と。 「えっ?」 ヒカルが塔矢を置いて走り出した。 「ちょっ、進藤!」 塔矢も慌てて追いかける。進藤が走って行くその先に視線を向けると、ホテルの正面入り口で佇む男性がいた。 進藤はその人に近づきながら叫んでいた。 「佐為!」 佐為はホテルの正面で迎えの車を待っていた。もうすぐ5月に入る夕刻の空は、緋色に染まっている。 そよぐ風が頬を撫でていき、若葉の香りが感じられる。 何気なく視線を巡らせたその時、切羽詰ったような顔をした若者が目に付き、その少年の口から「佐為!」 という叫びが響き吃驚した。 お互いに顔を見合わせ数秒程経った時、「進藤どうした?」 もうひとりの少年が側に来た。2人とも、それぞれ整った顔立ちをした美青年、いや美少年と呼ぶべきだろうか。 佐為は首を傾げ「どちら様でしょうか?」 と、最初に自分を呼んだ少年に尋ねた。 その少年は愕然とした表情をしながらも「佐為、佐為なんだろ? 俺が分からないのか? 忘れちゃったのかよ!」 悲痛な想いを抱 かせるような、切羽詰まった叫びだった。 「……何処かでお会いした事がございますか? 申し訳ありませんが覚えがないのですが」 佐為はその少年が上げる叫びに、心がツキッとしながらもそう答えた。 「……そっ、そ」 震える唇で言葉を紡ごうとしているのだが、声にならないようだ。 暫く待っってみたが、それ以上問いかけが無いと判断して 「御用がないのでしたら、失礼させて頂きます」 軽く二人に会釈して迎えに来た車に乗っていく。いずれにしても此処に留まっていても、致し方ない。 ハッとしてその車を尚追いかけようとするヒカルを、塔矢が無理やり捕まえる。 「進藤落ち着いて、進藤!」 ヒカルは呆然とした顔をして、走り去っていく車を見ていた。 「進藤大丈夫か? 何処かでちょっと休むか?」 「……いや、いい。塔矢悪い、俺帰る。ゴメン」 「わかった、じゃ駅まで送っていく」 「いい、一人で帰れる」 「ダメ、駅まで一緒に行く」 一度言い出したら聞かない塔矢である、ヒカルも仕方なく一緒に歩く。 進藤の顔は青ざめ、視線を下に向けたまま歩いている。 さっき、進藤は"さい"って呼んだ。あの男の人も否定しなかった。"さい"とは、ネットの"sai”の事だろうか? でもあの人は進藤のこと知らないようにみえた。とてつもなく綺麗な人だったな。 艶やかな長い黒髪を緩やかに束ねていた。男性にしては長い髪だったが、その人にはよく似合っていた。 肌は陶器のように滑らかで、眼は深い碧みがかった色をしていた。女性でもここまでの美しさを備えた人には、そうそうお目に掛かれないだろうと思わせる程だ。 しかし、今の進藤には、あれこれ聞ける状態ではなかった。 最寄り駅に着いて「進藤、本当に大丈夫なのか?」 と問いかける。 「うん、ゴメン塔矢。またな」 やって来た電車に乗って家に帰り着くまで、ヒカルは何も考えられなかった。 ただ佐為・佐為と、心の中で繰り返し呟いているだけだった。 家の玄関を開けると母が出てきた。 「お帰りヒカル」 「ただいま……」 「顔色が悪いわよ、どこか具合悪いの?」 「ううん大丈夫。ちょっと疲れただけ」 「そう? 後でココア持っていってあげるわ」 自室に入って俯きながらベッドに座り、さっきの出来事を思い返す。 自分を見詰めたあの眼は知らない人を見る眼だ。俺の事は全く覚えていないようだった。 涙が一筋頬を伝った。 いや違う。覚えてないのじゃない。あの人は別人だ。 だって佐為は幽霊だったんだから、生身の人間で存在してる訳ない。 いくら、顔がそっくりでも、声がそっくりでも、雰囲気がそっくりでも……、あの人は赤の他人なんだ。 そんな事分かっていたはずなのに、分かっていたはず……。 あまりに佐為そのものだったので、思わず駆け寄ってしまった。きっと不審に思っただろうな。 佐為が消えてからも、普段は心の奥底に押し込めている感情が、湧き出てくる事がある。 3年あまり経っても、佐為のことを忘れられない自分がいる。 「ばっかだなぁ俺……。いい加減卒業しなきゃいけないよな、佐為に笑われるじゃん。塔矢の奴、変に思っただろうなあ」 ヒカルは今も自責の念に囚われていた。自分ばかり打ちたがり佐為を邪険に扱ったこと。洪秀英 との対局の後に、みんなの心に”sai”はもう居ないんだ。俺が消してみせると言ったこと。 逆転の一手を見つけて、得意気に言ってしまったことを…… もうすぐ北斗杯が始まる。しゃんと気持ちを切り替えて望まなきゃ、俺は日本代表なんだから。 ご飯食べて風呂入って今夜は寝よう。一晩ぐっすり寝て今日の事は忘れるんだ。 一方佐為は、マンションに帰る車中で先ほどの事を考えていた。 自分の事を呼んだあの少年、まだ青年と呼ぶには幼さが若干見える。 何処かで会ったのだろうか? 後から駆けて来た若者に若干の覚えがあるのだが、しかし会ったという記憶がなかった。 一度会えば大概の人は覚えていられる。 二人とも髪型に特徴があり、佐為と呼んだ少年は前髪だけ金髪で、もう一人はオカッパであった。 あんな特徴的な髪型をしてれば、まず忘れる訳がないと思う。 「切羽詰った様子でしたねぇ」 それが何故かしら心に懸かる。 何年前からだろう。佐為は時々同じ夢を見ることがある。 平安装束を着た自分がいて、碁を打っているのだ。碁を打っている場所、あれは宮中だろうか? すると、突然場面が変わって今度は江戸のお城の中で碁を打っている。でも、碁を打っているのは自分ではなく、別の人物だった。その人物の傍らにいて自分が指示しているような……。 また場面が変わって現代になり、誰かの側にいて碁を打つ場所を指示していたり、その人物が打つのをじっと見ていたり、何処かの部屋で対面して打っている。 どの場面でも人々の顔は全く見えないし、ただ其処に人がいるというのが分かるだけである。そういえば、現代で自分を呼ぶ声が聞こえた事がある。「佐為!」 元気のいい子供の声だった。今日自分に呼びかけた、あの声に似ていなかったかだろうか? 「まさか……、あるはずがありませんよ。夢に整合性を求めても仕方ないですね」 その時々で平安時代のような夢だったり、現代の夢だけということもある。一体この夢には何の意味があるんだろうか 同じ夢を見ることは何かあると思うのだが、佐為にはそれ以上解るはずもなかった。 自分も確かに碁を打つ。祖父と叔父に子供の頃から教えて貰ったのだ。 祖父と叔父は「佐為には碁の才能があるな」 と言い、二人ともとても可愛がってくれた。しかし、自分が碁打ちになろうと思ったことはなかった。 別に父と兄たちに邪険にされていた訳ではない。一人歳が離れているせいか、佐為は可愛がられた。 母が早くに亡くなっているせいで、自分の事を不憫に思ってくれたのかも知れない。 特に姉は母代わりになって面倒を見てくれたので、今でも頭が上がらない。いや、おもちゃにされていた様な気がしないでもないけれど。 この時点では、それ以上佐為の心に残る事はなかった。ちょっと変わった出来事ではあったが、それも日常に埋もれて忘れられていく。 塔矢は気がかりだった。今日の進藤は普通じゃない。 ”さい・sai”塔矢は何処かであの男の人を見たような記憶があった。 会った事は無いと思う。あんなに綺麗な男の人に会えば忘れる訳がない。とすると何かで見たのだろうか? 雑誌とかTVとか新聞。 そうだ! 経済紙の新聞で見た覚えがある。 何処で見た新聞だろうか? 経済紙の新聞に載るぐらい有名な人物なら、ネットで検索すれば出てくるかもしれない。 早速、【経済・新聞・さい】の語句で検索をかけてみれば、すぐにヒットした。 『藤原佐為』 世界に名を轟かせる一大企業グループ藤原コンツェルンだ。 彼は其処の御曹司で、祖父が会長、父が社長、叔父と兄が二人姉が一人いる。 お姉さん以外は、それぞれが要職に就いている。 現在25歳・独身で、ホテル・娯楽関連の事業を担当している。相当のやり手と評判らしい。 「あっ! 今日会ったホテルウィステリアも、藤原グループのものだった」 何の事はない自分が担当するホテルに来ていたのだ。ウィステリアも【藤=Wisteria】からつけられたものらしい。 この情報を進藤に教えてやったほうがいいだろうか? しかしただ悪戯に教えても、今日のあの人の対応を考えれば止した方がいい様な気がする。進藤に辛い思いをさせるのは、塔矢の本意ではない。 そして、ヒカルも塔矢もすっかり失念しているのだが、今度の北斗杯の会場はホテルウィステリアだったのである。 いよいよ、北斗杯が近づいて合宿の日を迎えた。 進藤とはあれから顔を合わせてはいないが、電話で近況だけは確認しておいた。この間はゴメンな、と存外明るい声で言われ塔矢もホッとした。 合宿当日、社と一緒に進藤もやって来た。いつものヒカルの様子に塔矢は安堵した。 早速1手10秒の早碁で、倉田さん曰くの勝負勘を磨く。今年の北斗杯の団長も変わらず倉田さんである。 明くる日は倉田さんも参加して、対局を中心に高永夏の棋譜の研究をした。 塔矢はその間も進藤の様子を窺っていたが、別段変わった所は見受けられ無いように思われた。 レセプション当日の朝、ヒカルは一旦着替えの為家に戻り、ホテルに行く事になっていた。 「塔矢ぁ、会場のホテルって何処だっけ?」 ヒカルに問われて塔矢はハッとした。 『しまった。僕としたことが忘れているなんて』 自分が忘れていた事はきれいに棚上げにし 「……ホテルウィステリアだよ。まさか忘れていたのか?」 「ちょ、ちょっと度忘れしただけだよ。そっか分かったぁ。んじゃ、塔矢も社も後でな」 「おぅ、気ぃつけてきぃーや」 社が上機嫌で送り出す。 ヒカルは何気ない素振りを装ったが、ホテルウィステリアと聞いてドキッとした。この間の出来事が甦る。 でもまた会う訳では無いし、何も気にする事はないと気持ちを切り替える。 レセプションは5時から始まるので、3時頃にチェックインすれば大丈夫のはず。 「じゃ、母さん行って来る」 母に見送られホテルに向かう。そこで、また再会してしまうとも知らずに……。 運命の歯車は回り始めていた。